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しなやかに、ゆるやかに

 ある日、友だちと話していた。何気ない世間話だった。
「友部さん(尊敬するミュージシャン)のライブへ行きたいけど、この調子やと、ちゃんと治療薬が市販されるまで難しいよな」
「そうやなぁ、やっさんの家にはいっぱい人が出入りしてるしなぁ」
「そやけど、ぼくの腰の具合もあるけど、友部さんも、もう二~三年ぐらいしか唄われへんかもしれんしなぁ。でも~、万が一を考えたら辛抱するしかないんかなぁ…」
「そらぁ、いろんなリスクを考えたら、仕方ないんちゃいますか」
 世間話は、こうして一段落がついた。

 ちなみに、彼は彼で営業の仕事をしていて、人との関わりは多いほうだろう。ひょんなことから、居酒屋で知りあった仲だ。
 あのときも、営業で近くをまわったといって、わが家に立ち寄ってくれたのだった。

 それから、一月ほどしてリハビリを兼ねての散歩をしていたら、車で休憩をしている彼と出会ってしまった。
 運転席の窓が開いて、手を振ってくれた。
なにせ、こちらはただの散歩だったから、急ぐこともない。
 ぼくから近づいていくと、窓から顔を出した彼は屈託なく話しはじめた。
「ぼく、この間、信州へひとり旅してきたんですよ。息抜きできました」
何の悪気もない表情だった。

 ぼくが友部さんのライブに行くかどうか話したとき、否定的な声には迫力があった。

 同じ人と関わるという立場でも、日常的に介護を受けなければならないぼくと、営業で走りまわる彼とでは「もし」の場合の状況が違う。
 特に、ぼくは硬直の強さが半端ないので、初めての人は面食らうし、おたがいに危険も伴う。
 だから、病院のお世話にはなりたくはない。
まして、二ヶ月ぐらい前なので、医療現場は逼迫していたから、携わる人たちも疲弊していて、人間関係などの難しさが聴こえてきていたころだった。
 メンタルがもろに全身の硬直につながるぼくにとっては、いよいよ厳しい状況に思えてくる。
 濃厚接触者にもならないことを祈りつづけるばかりだった。

 だから、彼の考えとは関係なく、ぼくは友部さんのライブへ行くつもりはなかったし、入院しなくても簡単に飲み薬程度で抑えられるレベルになるまで、なんとか唄いつづけてほしいと願うばかりだった。そして、いまも…。

 すごくデリケートな内容だと思う。
まわりのサポーター(ヘルパー)の人たちと話していても、意見は一人ひとり違う。誰もが答えの出ない話にうなってしまう。

 話を短く補足すると、ぼくにとっての友部正人はしんどいときに唄を通して寄り添ってもらっただけでなく、片手の指ではあまるほどの大切な一人ひとりとのつながりの節目になった。
 ぼくの体の一部といってもいいかもしれない。

 冒頭の会話の断言する彼と、ひとり旅を話してくれた彼に、ぼくは違和感を持ってしまった。
 あのとき、「難しいですよね…」のようなゆとりを受け取っていれば、いまの感情もずいぶん違うかもしれない。

 ぼくは、正解をひとつしか持たない人、それを押しつけようとする人と、あまり関わらないでいようと思うようになった。
適当な距離を置いて、おつき合いしようと痛感してしまった。

 自分自身の心を守るために。

 書き足りない気がした。
彼のぼくに対する断言と行動とのギャップに違和感は持っていても、それはどうでもいいことで、あの威圧感に引っかかっている。
ひとり旅については、個人の自由ではないだろうか。

 マジメに伝えようとすると、気持ちとは裏腹に「こうでなければならない」というふうに聴こえてしまうときがある。気をつけたい。

 とにかくゆるく、どこまでもゆるく…




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