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ピカソのパリ時代の最初の恋人、フェルナン・オリビエは、モディリアーニの下宿の様子を著書『ピカソとその友達』にこう記している(中略)カーテンはなかった

実際サルモンの言う通り、「ルソーの芸術の中に偶然はない」(中略)マクシミリアン・ゴーティエは、ルソーの古い絵を洗うと、「黄色くなったニスの下から、偉大な技術を身につけた者の仕事であることの争う余地のない絵肌がそっくりあらわれてくる」と証言する(中略)ルソーは、そのデビュー早々から、新聞雑誌の批評にとりあげられるという光栄に浴した。もちろん讃辞ではなく、以後彼が一生浴びつづけることになる酷評だ(中略)展覧会(※アンデパンダン展)の威厳を著しく損なうとして、「会場のつめたい片隅にかくされ、追放され」た(中略)結局トゥールーズ = ロートレックらの弁護が勝を占め、何人も受け入れられるというアンデパンダン展の原則が通って、事なきを得たという。この展覧会から閉め出されたら、たぶんルソーにはもうどこにも行き場はなかったろう。※引用者加筆.

アンリ・ルソー 京都市京セラ美術館↑

カミーユ・ピサロはオディロン・ルドンと共にこの素人画家(ルソー)に最も早くから着目していた(中略)1893年にルソーが「アンデパンダン展」から閉め出されずにすんだのは、ひとえにアンリ・トゥールーズ=ロートレックが、無審査展覧会の会則を引き合いにだしたおかげである。

「食いすぎは僕にとって唯一の薬なんだ」 彼(※モディリアーニ)は彼女にそういった。彼が自分の病気について話すのはこれがはじめてだった(中略)「人生はほんの一握りの人間から大勢の人間への贈り物だ。持ち、知る者から、持たず、知らざる者への。」モディリアーニ自身のことばではないとはいえ、これは彼自身を象徴することばであり、ルニアもおそらく彼と同じような考えを抱いていたのであろう(中略)「君も絵を描いているんだろう」ルノワールは穏やかにいった。モディリアーニはうなずいた。「絵は楽しみながら描くもんだ。女を抱くときの楽しさと同じだ。僕は絵を描く前には、何時間も尻を観察するんだ・・・・・・ 」───ルノワール(中略)一九一〇年にパリにきたシャガールは回想している。モディリアーニもまた、自分が異邦人でアウトサイダーであることを鋭く意識していた(中略)ピカソは、モディリアーニの無法ぶりをとがめて頻繁に拘引した警官が、葬列がゆっくりと通りすぎるのを直立不動の姿勢で見送ったのを見て、「見たかい。 モディは今復讐したんだ」とカルコにささやいた(中略)ブレーズ・サンドラールは「私は彼のことが非常に好きだったから、この愛情を彼の娘に振り向けよう」と述べている(中略)モディリアーニはお洒落を楽しみ、どんなにみすぼらしいぼろ服でも印象深く見えるような、なにげない流儀で着こなす術を心得ていた。 彼が「身だしなみを知っている唯一のパリの芸術家である」とはピカソの評である(中略)彼は人に覚えられるために、お洒落をしたり他人のまねをする必要はなかった。愚かなことには皮肉で答えるが、彼はウィットに富み、元気と活力に満ちた魅力的な友人となった。当時彼を知る者は誰一人として、彼がロマンティックな伝記に出てくる悲劇の英雄だとは思わなかったであろう(中略)パリで有名な近代的な芸術家たちが労働者の上っ張りを着ているなどということはつゆ知らなかったのである(中略)画家ヴラマンクは、モディリアーニは決してその気高さを失うことはなかったと主張している(中略)モディリアーニは貧乏には違いないけど、貴族的な雰囲気を持っているんだ」バクストはモディリアーニをあたかも燃え盛る炎で顔を照らし、走り抜ける馬車のごとく誉めたたえた(中略)(※モディリアーニ)はスピノザの子孫であると主張していたが、この偉大な哲学者は独身であり、子供がいたという記録はないため、子孫といっても傍系であろう。異端的な信念のゆえにユダヤ人社会から締め出されたスピノザは、当然のように一族の英雄であった(中略)モディリアーニは宗教を実践することはなかった。※引用者加筆.

モディリアーニ 京都市京セラ美術館↑

ピカソのパリ時代の最初の恋人、フェルナン・オリビエは、モディリアーニの下宿の様子を著書『ピカソとその友達』にこう記している(中略)カーテンはなかった。

モディリアーニ 京都市京セラ美術館↑

寝室に、電源を示す小さなものでもLEDの光があるなら、絶縁テープなどでふさぐべきだ(中略)体内時計が崩れた人は血糖値が高くなり、満腹感をもたらすホルモンであるレプチンの数値が低くなった↓

スピノザ↓


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