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テーマは、70代、80代の人たちが、肉体的老い、精神的老いを予防し、健康寿命=「寿命の質」を延ばし、あるいは高めていき、上機嫌で生きていくためには、どうすればよいか

本多正信(1538〜1616)は、代々の三河松平家(岡崎城主)に仕えた武士で家康の摩り替えが起きた(1516年4月)あと、新家康に仕えることを拒否して消えた(中略)このあと「三河の一向一揆」という名で歴史書では呼ばれるが、本当は宗教的な反乱ではない。本当は松平氏の旧家臣団がスリ替わった新家康に反抗して起こしたものだ(1563年)。正信はこれに加わったあと出奔した。反乱は約1年で新家康によって鎮圧された。生き残った者たちは、新家康の家来になることを誓った。正信は、それから19年後の1582年に、即ち、信長の死のあと戻って来て、新家康に仕えた(中略)家康摩り替え以来の大きなしこりが徳川家臣団にずっと残ったのだ。それが血塗られた江戸城内の「(真実を)見ざる、言わざる、聞かざる」の緘口令として続いた(中略)酒井忠次、忠勝、忠世ら酒井氏も、旧松平元康に仕えた家柄で、はじめは新家康に反抗した家系(中略)始めから家康の摩り替えを知っていた家系(中略)新家康は1570年から17年間もこの浜松城(引馬城)にいた。新家康はずっと浜松城にいたのだ、と歴史好きたちさえ知らない。岡崎城主松平元康を殺して摩り替わったので、岡崎にはいたくなかった。息子の松平信康と母の築山御膳を、1578年に「用がなくなった」と殺している。長男秀忠(2代将軍)が同年に生まれたからだ(中略)息子信康が真実の父の死(摩り替わられたので葬式もない)のあとは、16年間、岡崎城主を務めた。信長はこの信康に自分の娘の徳姫(五徳)を娶らせた。だからやはり全ては信長が仕組んだのだ(中略)この事実を歴史家たちが覆い隠そうとする。そして信康は1587年に20歳で新家康に殺された。母親の築山御前(松平元康の正室)と共に殺された。この頃の信康への処遇のひどさに堪えられずに石川数正は失踪したようだ。そしてこの時の権力者であった秀吉に仕えた。数正は秀吉に厚遇されて泉州(大阪府の南)や松本深志城10万石を与えられた(中略)信康の首を切り落としたのは服部半蔵(二代目服部正成)で涙を流しながら「主君殺し」をしたという(中略)
松平信康(岡崎城主元康の長男)が2歳の時(1560年4月)に、今川軍の尾張攻めの出陣の直前に盗み出された。そして用宗、掛塚、吉良大浜と東海全体をつなぐ港の航路を使って、三河にさらわれて行った。いや岡崎城に連れ帰されていった。桶狭間の戦(1560年5月14日)の1年2ヶ月後。世良田元信は、「松平元康どの。あなたの息子(信康どの)をた救けだして参ったぞ。私どもも、あなた様の臣下になるので城に入れてくだされ」と申し出て、そしてまんまと岡崎城に入り込んだ(1561年2月)(中略)その1ヶ月後に、油断した松平元康を斬り殺した。そして新家康(世良田元信)が松平元康に摩り替わった。そして早くもその4月には、信長と新家康が清洲城で公然と主従の結めをしている。これを、徳川中心史観の歴史学者たちは「清洲同盟」などと呼ぶ(中略)この掛塚にいた鍛冶屋の平太(夫ゆう)の娘が、西郷局である。この女性が、新家康(世良田元信)の本当の妻だ(中略)掛塚にいた服部平太夫たちは、忍者であり元々は伊賀(三重県)から来た伊賀者である。だから新家康も、伊賀者(中略)三方原の戦で新家康は武田信玄にボロボロに負けに負けた。信長の軍が援軍ですぐ近くまで来ていたのだが間に合わなかった。家康は掛塚に逃げ込んで生き延びた。それでだ。このあと信長が何をやったか(中略)家康は浜松城にずっといた(岡崎は、まだ赤ちゃんの松平信康が城主)。この浜松時代の17年間、家康に寄り添った真の妻だ。この西郷局(あい)から生まれたのが、二代将軍秀忠と吉直である。長男秀忠は1579年に浜松城(旧名は引馬城、あるいは曳馬城)で生まれた。岡崎城にいる信康は邪魔になって不要になった。だから、新家康は、この年に、自分がスリ替わった松平元康の正室の築山殿(8月29日死)と息子の信康(9月15日死)を殺してしまう。何度も繰り返すが、この二人の本当の夫、父は岡崎城主松平元康(中略)武田信玄をその翌年にはコロリと毒殺(暗殺)してしまったのである(1573年4月)。三方原(浜松)の戦のあと、信玄軍は浜名湖の北の三ケ日で野営をして年を越した。そのまま京を目指していた。この武田軍の陣営のなかに、潜り込んだ信長の忍者(ラッパ、スッパ)が信玄を毒殺している。場所は信州に入った駒場の宿とされる。が本当は、三河の長篠の南辺りだろう。信玄の重臣たちは、信玄の死を秘匿しながら大慌てで甲府に逃げ帰っていった(中略)このようにして信長は、強敵武田信玄を実にあっさりと殺してしまった(中略)「三ざる」は「三猿」として日光東照宮の欄間のレリーフに彫られている。彫刻師左甚五郎の作とされる。日光東照宮の建造者である天海(明智光秀)による「神君家康公の若い時(1561年、19歳)の岡崎城主松平元康への摩り替わり」の秘密について徳川の家臣団は、絶対に口外してはならぬ、という戒め、忠告、脅しなのである。

絶対に口外してはならぬ、という戒め、忠告、脅し

ウィキペディアンたちがボランティアで書いてます、は人々を欺く謀略言論である。書き手は名無しのゴンベエだ(中略)それなのに、日本の出版業界と知識人層は疑うことも知らず、このウィキペディアにべったりと依存している

ウィキペディアというのは、まさしく米CIAが作って運営しているネット組織だ。悪辣(あくらつ)なのだ。このことも、日本の知識層が知らない↓
ウィキペディアはアメリカCIAが制作して管理している世界規模の情報収集体↓
壮年期とは違った70代、80代のフェーズ(局面)

ウィキペディアに書いていないことを語ろう(中略)同調圧力に流されない(中略)与えられた情報を疑い自分で確かめる視点を持つ(中略)本書のテーマは、70代、80代の人たちが、肉体的老い、精神的老いを予防し、健康寿命=「寿命の質」を延ばし、あるいは高めていき、上機嫌で生きていくためには、どうすればよいか、です。そのテーマにうまく対応できれば、死ぬまで「人生のピークを上書きする」が可能(中略)成功する人はひと言でいえば、確かな助走を経て踏み切っている(中略)新しいステージにトライするための決断の時期、マインドの強さ、そして準備の周到さ(中略)壮年期とは違った70代、80代のフェーズ(局面)(中略)老化予防で大事なのは頭や体を「使い続ける」こと(中略)ある一定の年齢に達したら学んだ知識のインプットは止めにしてアウトプットすべきだ(中略)積み重ねてきた知識や経験を同好の士らに発信することで活動する世界が広がり、さらなる脳の刺激が得られる(中略)「アウトプット」ができる趣味をおすすめ(中略)伊能忠敬(※享年74歳)は「凄い高齢者」のお手本(中略)(※伊能忠敬は)江戸で当時の暦学の第一人者の高橋至時に師事し暦学を学びます。当時、高橋は伊能よりも19歳年下の31歳(中略)50歳のときに師事した19歳年下の暦学者高橋至時に対して、終生、弟子として師を敬い、教えを乞う姿勢を崩さなかったとされています。師である高橋は伊能の死の14年前に亡くなりますが、伊能は師への恩を忘れることはありませんでした ※引用者加筆.

老中水野忠邦が登場して天保の改革を始めた(中略)この忠邦が任命した大目付の鳥居忠耀(耀蔵)が、いかにも公儀隠密の元締め、即ち徳川忍者の頭目である。その配下に間宮林蔵、近藤重蔵、伊能忠敬、最上徳内、高田屋嘉兵衛たちがいた。すべて幕府隠密(忍者)(※数十億の資産を持っていた伊能忠敬は惣庄屋という十数ヵ村をまとめて支配した村役人の最上位の者)↓
伊能忠敬たちが測量で利用する三角関数表も、門弟と共につくりあげていた↓


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