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マルクス・ガブリエル『アートの力:美的実在論』をミーハーに読む

芸術、アートとは何なのか。ほとんどの人は、その問い自体にはあまり興味がないだろう。昨今、アート的なアプローチ、ーー すなわち、感性を用いた・ユニークな何か ーー をビジネスに導入しようとする一定のブームめいたものがあるように見受けられるが、だからと言って、アートとは一体何かという事を哲学的に探求する事にまで興味を持つ人は少ないように思われる。

アートを生み出す時のように考えましょう、と言われても、実際には困ることがあるはずだ。多くの人が経験的に知るとおり、アートというものは決して一様ではない。鑑賞者によってはその美的価値がまったくわからないような奇妙な作品も数多く存在する。つまり、アート作品に共通する性質を抽出して、「こういうものがアートだから、それが作られるやり方を拝借してクリエイティブにやりしょう」などと言ってみても、結局は具体的に何をどうすれば良いのかはサッパリわからない、ということがしょっちゅう起こるはずだ。

従って、詳しく読んではいないが、おそらく世の中のアート思考的な何かをうたった本みたいなものの多くは、実際には抜群のアイデアの出し方とかデザインやマーケティングをそれらしく扱ったものであり、人生やビジネスそのものをアートと呼べる何かにしようという話ではないのだろう、と個人的には思っているところだ。

ミーハーだからこそアートとは何かを考えるのだ

とはいえ、「アート」という言葉は、日常生活者である我々にとって、やはりどうにも魅力的なのである。

自分は、チームワークとか、組織でバツグンの成果をあげることにはそれほど興味は無いが、人間としてはアートな存在でありたいミーハーの1人である。なぜなら、カッコいいに違いないからだ。そうなってくると、アートをクリエイションする的な手法ではなく、やはりアートそのものについて考えることを避けて通れない。

伝統的にアートみたいなものを扱ってきた学問である美学とか芸術哲学というものは、わりとゴッリゴリのやつ(*1)なので、そうしたミーハーなきぶんでかじるものではないに違いない。しかし、ミーハーは、ミーハーであるがゆえに、「本物っぽさ」をまといたい、という欲望を持つのであり(*2)、それゆえに例え討ち死にすると知っていても、時折アートとは何かという問いに向き合わざるを得なくなるのである。

アートとは何であるか、そしてその力とは。いいじゃないか。それをマスターすれば、現実をハックして、楽して人気者になり、なんならいい感じにJPYを入手できるに違いない。本エントリーは、そうした間違った動機から、アートの実在論をかじるという、なんとも中途半端な読書の記録である。

*1 美学を学ぼうとすると古典として必ずと言っていいほどカントの『判断力批判』が登場するが、普通に読んでも大体わからない。そして『判断力批判』を解説・解釈した本も、ビジネスマンが気軽に読むには大体重い。

*2 子どもが、おもちゃの携帯電話では満足せずに、お古のガラクタめいたアイフォーンとかを所持したがるのと同じだ。なお、断っておくが、これは一般の大人に普遍的に見られるとまで言えるものではなく、筆者個人について当てはまるだけの経験的事実である。

『アートの力:美的実在論』の概要

マルクス・ガブリエルは1980年生まれのドイツの哲学者であり、「新実在論」なるものを掲げ、29歳の若さでボン大学の教授になるなど、哲学界の新星として知られる人物である。『なぜ世界は存在しないのか』(2013)によって一躍世界的に有名となった。

『アートの力:美的実在論』は、新実在論を用いて、アートとはどういうものかを論じた小品である。

自分は残念ながら『なぜ世界は存在しないのか』を読んでいない。そのため、『アートの力:美的実在論』を読むにあたって「意味の場」の概念といった基礎が多少フワフワしているというビハインドがあったものの、本書自体はテキスト量も少なく、比較的平易に読める内容となっており、さほど苦労せずに読むことが出来た。美学とかを専門にしようという人で無くても取り敢えず読める(*1)、というのはかなり貴重な作品であると言えるだろう。

とはいえ、自分は一応学生時代にその辺をサラッと通っている人間なので、それなりにわかる、という面は多少あろうかと思う。近代哲学の用語にそもそもアレルギーがあるとかだと、多少読むのがツラいところもあるかもしれない。ただ、批判しようとする伝統的な立場についても、ある程度かみ砕いてサラッと説明はしてあるので、当該批判の当否をそもそも考えたいといったPROとかでなければ、そういうもんかとサラッと読んで構わないだろうと思う。

本作の主張するアートの定義は「アート作品はラディカルに自律した個体である」という結論となっている。もちろん、この言葉だけを聞いて覚えてもなんの意味もない。そこに至るまでのプロセスをなぞり、読者自らの思考回路にあらたなプロセスをインセプション(植え付け)することに本作を読むという体験の意義があるだろう。

アートが自律しているとは、他の普遍的法則に服さないものであるということである。つまり、アート作品は、特に理由なく存在しており、その作品がアートであるか否かを定義するのはアート作品そのものである。この一見トートロジーめいた主張に辿り着くまでのプロセスがエキサイティングに語られる。

個人的には、特に現代アートに関して、それを理解するためには、コンテキストの中に置かれなければならない、つまり、どういう文脈でその作品があるかを理解しなければ、当該作品がアートであるか否かを判定することはできない、というように広く考えられているところ、それを「経済価値理論の曲用(*2)」として退け、異なる視点からアートの実在を論じているところが特に新鮮に感じられた。

*1 多くの哲学書は、そもそも読むこと自体が困難であるということを言っており、内容が理解できたとは言っていない。

*2 貨幣が価値を持つのは、交換価値を持つからであるが、それは十分な人がそれを信じているから、という文脈ありきのことである、みたいな話。

アートであるには

「アート作品はラディカルに自律した個体である」という定義に反しない限り、ラディカルに自律した個人もまたアートである、と言うことが出来る。アートっぽさをまといたいミーハーにとっては、ここはまずひとつ重要なポイントだ。

そして、本作の主張によれば、アートは解釈を必要とする。解釈ないしは美的経験を通じて鑑賞者は作品の構成に参加することとなるが、アートは他の普遍的法則に服さないため、鑑賞者はアートの持つ固有の法則と力に服し、作品に引き込まれることになる。そうした経験が人々を変容させる。これは優れた作品を鑑賞した際に受けるある種のインスパイアされたような現実の感覚と合致する事のように思う。

これをレベルの低い日常の話へと落としていくと、他者をインスパイアするような存在であるためには、ありふれた法則に従った存在であってはいけない、というようにも解釈できそうだ。しかし、社会や日常生活で必要とされるルールをどんどん無視していくと、間違いなく、人間性に問題がある人物という見られ方をするだろう。そうした人物は物議を醸し、時折居酒屋トークのネタとして良くも悪くも楽しまれるハメに陥るかもしれない。とはいえ、そういうところが一切ない人間というのも、またつまらないようにも思われる。

ラディカルさは度を越していない限り、人間の魅力になる。塩梅は人それぞれだろうが、さほど苦労せず読めて、示唆深い『アートの力:美的実在論』をヒントに、自分なりの道を探してみるのもアリかも知れない。

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