人間の生きている授業
上田薫の本を読んだ。
本当に久しぶりに本を読んだ。久しぶりに読む本がこの本でよかった。
読むのに自分の考えを揺さぶられ、これまでの自分を破壊され、そしてまた再構築していこうと思わされる。小手先の技術じゃなき、熱い熱い本だった。
例えばこんなことが書かれているわけだ。
そう、そうなんだよ。
あの子にとっての基礎基本と、この子にとっての基礎基本なんて異なるって当たり前のことだろうに、なぜか基礎基本だけは皆同じ土俵であるみたいなことが平気で起こっている。その土俵土台がある児童は、すでに基礎ができている子ども、そうでないと基礎が欠けている子ども。
コンテンツとして、この単元を学習するにあたっての既習事項はあるのかもしれないけれど、それが基礎になるかどうかなんてのは、子どもをコンテンツの側から判断してしまっているわけよな。
挙句、基礎ができていない児童は叱責され、「◯年生ならこのくらいのことは分かりますよね」って。一律な◯年生は、一体何を誰を見ながら語られていく言葉なんだろうか。
でもこの本でも中心として語られているし、上田薫が大事にしている「個的全体性」この言葉のこと、自分はまだまだ正しく理解できていないし、到底誰かに説明できるものではない。なおさら自分が実践できているかなんていうのは、ずっとずっともしかしたら永遠にやってこない先の話。
この冬休み、上田薫全集を読んでみようと思う。毎日少しずつたっぷりどっぷりと上田薫を味わいたい。
現代の教育技術とか教育技法はね、どんどんどんどん流行ってくれていい。自分も遅れずにGoogleとかMicrosoftとかの資格も手を出していきたい。できないことと、やらないことは違うから、やれるだけやってみて難しかったなって言いたい。
ただね、そういうことも大切にしながら、やっぱり心のどこかで、さらにそうしたものの根底に流れているような、アナログといっていいのか、人と人が向き合うこととか、子どもを大切にするってどういうことなのかとか、子どもが主人公である教室ってどんなものなのかとか、そういう実証できないかもしれない、ここでしか起こっていない物語を大切にできる教師でありたいわけです。
久しぶりにドキドキしながら書いたnote
新年に向けての助走になりますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?