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詞だか詩なのか死ぬまで喧嘩しよう!

詩人、という職業に就きたがっているんだと、言うと、たまに聞かれるのは、『音楽の詞と詩って何が違うと思いますか』という話だ。
めちゃくちゃ私見、ということを前提として言うのならば、『商業的にも成立するのは詞、感性100で構成されているのが詩』と考えている、と答える。

詞、とはそもそも、『筆記したり口で言ったりして意味を伝えるもの』なのだ。だから、(音だけで言葉を伝えるというツールとしての)音楽には詞なのだ。
でも、わたしは、コミュニケーションツールや、表現の方法が少なかった太古の考え方もあると思っている。それだけじゃなくなっている、アップデートされた現代の文化がある気がするのだ。

例として、Official髭男dism。
みんな大好きヒゲダン。曲出せば大体売れるヒゲダン。大体の楽曲にタイアップがあるヒゲダン。(偏見)
まごうことなき売れているアーティストだ。
彼らの楽曲、【subtitle】を聴いていて、ふと思った。(先に言っておくが、楽曲自体は好きだ、作曲センスが好き。)

この楽曲はそもそも、【silent】というドラマの為の書き下ろし(当て書き)だ。だからドラマを見た人ならより、感情が震わせられる、という構成になっている。というか、髭男はタイアップものの時大抵その手法を取る。普通に聴いていてもいいけど、内容を知っているとよりいいよね、という。
でも、わたしの感性、というか感覚的には、『マジで日本語の量と意味がまどろっこしいな!』と思える。基本的に文章、散文のように長いからかもしれない。

わたし自身、ドラマは見たことあるし、上手く「好き」や「愛してる」を言葉にできないという感覚は伝わってくるけれど、『結局何が言いたいん?』となってしまう。一曲の中に、というか、主旋律の中に収まっている言葉数が多過ぎるのだ。いろんなアーティストに言えることだけど、髭男は特に顕著で、それでもちゃんと売れている存在だ。


これは詩の世界でも言えることなのだ。
代表例として、最果タヒがいると思う。

彼女は、大御所詩人・谷川俊太郎以来に売れている詩人と言われるほどのベストセラー作家でもあり、商業的なコラボレーションも次々に成功させ、作品は映像化もされ、個人でも『詩の〇〇』というグッズシリーズを作成している。
髭男とどこか似ている、というのは、彼女の詩もまた、長いのだ。
上記のリンクはあくまで個人SNSなので、短い詩が多いのだが、詩集の詩は、『これはもはや小説なのでは…』と思うほど、情報量と言葉数が多いのだ。他にも、固有名詞をバンバン使ったり、「キモい」「ヤバい」的な現代語を使ったりするのも、まあ新鮮と言えばそう。

でも、それって詩なのか?ってわたしはだんだん感じた。違和感は一度感じたら止まらない。

彼女の登場以来、世間の詩がどんどん長くなっているのだ。下手したら詩集サイズの紙にびっしり書かれた文章が2〜3ページにも渡ったりもする。勿論、情報は事細かい。それって、小説でもいいじゃん、小説書けばいいじゃん、と思う。
しかし、そういう詩人に限って書籍化されていたり、賞を受賞していたりする。そして、最果タヒは商業的成功をしている。

この二組から言えるのは、『現代の人々は詞に自分の代弁を預けている』こと。そして、『商業的に成功するのは詩ではなく詞』ということ。
口でも筆記でも意味を指し示すのが詞だとしたら、言葉の通り、伝える、ということに特化したのが詞(lyric)だ。この感情を伝えたい、自分はこうなんだよって言いたい、という思いから、どんどん言葉数が増えていく、のは、かなり自然なことな気がする。(それでも、それはepicになってしまうのでは?という疑問も浮かぶが)

しかし、この考え方は詩(poem)には合わないと感じる。詩は、リズムと形式が必要になってくるし、そもそも余白がないとならないと、個人的に思うからだ。
余白、はどういう意味か。簡単に言うと『主人公を(もしくは事象を)特定しないこと』だ。
想像力をたくさん膨らませて、読者の数だけ解釈や感じ取り方をして、違いや感性の変化を楽しむのが
詩の醍醐味。まして、言葉遊びだけの詩に至っては意味を伝えたいよりも先に、言葉の韻踏やリズムを楽しむ要素が強まる。故に詞と詩は別物なのだ。

現代、多くの人々がSNSで簡単に、より明細に、文章起こしができるようになった。無論、わたしもだ。それでも、人々は常に代弁者の才能を求めている。才能がある者に簡単に賞賛し、金銭を投げる。
それが逆に、詩文化を衰退させている気もする。
言葉で遊ぶ余裕よりも、意味を求め、伝え合い共感することを優先させているのだ。
良いか悪いか、というより、そういう現実、現代。コミュニケーションツールや手法が発展したが故だ。

そんな中、わたしは詞に頼らず、詩を書き続けらるか?常日頃戦う為の目標ができた気がする。わたしは最後まで詩を楽しみたい。売れなくても。

余談だが、髭男の楽曲、過去のものであればあるほど、詞的要素は薄い気がする。まあ、そういうことだよな。
でも、最果にしても。髭男にても、売れながらにして才能のある、二律背反が可能な人間は、素直に尊敬する。

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