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とうめい 担当:かわかみなおこ

とんでもない話だが、まずは、右手が消えた。

朝ベッドからむくりと起きあがり、そのまま洗面台へ向かい顔を洗おうとした。洗顔フォームに手を伸ばすと、袖から先にわたしの手はなかった。
しかし洗顔フォームのチューブを掴むことはできる。
目の前の洗顔フォームは、ふよふよと浮き上がっているように見えた。

そうか消えたのではなく透明になったのだ、と寝ぼけた頭で気づき、一度ベッドに戻った。幸い今日は土曜で予定もない。連日の激務で疲れて夢と現実の境がないのかもしれない。あるいはこれが明晰夢というものか。
まだ肌寒い冬の終わりの日、布団の中でもう一度眠りにつくのは簡単だった。

つぎは、左足が消えた。
これが夢ではないと気づいて起き上がり、服を脱いでみると右手は肘から先が、足は膝から下が綺麗に見えなくなっていた。
感覚はしっかりあるし、手袋とタイツを履けば全く気付かれないだろう。
しばらく見えないパーツを観察し、ひとしきり唸ったり、症状をスマホで検索したあと、彼氏に連絡することにした。

『今日会えないかな』

恐る恐るLINEを送る。今日は会う約束をしていない。
きっとひとしきり寝た後に友達と遊ぶ約束をしているだろうから、いつ返事が来るかもわからない。
それでもわたしには、まず誰に相談すればいいかも分からなかった。

つかない既読を「やっぱり」と呟きながら眺めたところで、改めて顔を洗おうと洗面台へ向かう。右手を水に晒すと、きちんと手の輪郭を感じる。でもそうしないと境界すらわからない。洗顔フォームの泡が、やっと右手の存在を確固たるものにしてくれるが、それでも指先までは追うことはできなかった。

服を着替えてタイツを履き、ご飯を食べようとキッチンへ向かった。
吊るされたフライパンを手に取るにも手に触れるまで距離感などが怪しくなり不安定になる。いっそ目を瞑っていたほうが感覚で動けるのかもしれないなどと思う。
卵を割ろうとしたときに、今度は親指以外の左指がごっそりなくなっている、いや、透明になっていることに気づく。
「ヒッ」
小さく声をあげ、卵を落としてしまった。見えなくなった手を使い、キッチンペーパーで割れた卵を掃除した。

どうやら、わたしは少しずつ消える箇所が増えていくようだった。
ご飯を食べる気も失せ、コーヒーだけ淹れてソファに座り込む。
テーブルに置いたスマホに手を伸ばし、見えない左手の人差し指で触れる。

「ん?」
スマホが、動かない。
さっきは確かに文字が打てていたのに。
もしやと思い、残っていた左手の親指で画面をなぞると問題なくロックが解除された。もう一度、消えた指でなぞると、画面は微動だにしなかった。

そうか、さっきは利き手の左手で操作していたから、このことに気がつけなかったのか。どうやら物理ボタンは透明でも押せるようだったので、音声で操作をできるように急いで設定をする。
親指が残っているうちに、念の為もう一度彼氏にLINEをする。まだ最初のメッセージには既読がつかない。

お願い、お願い、早く読んで。会いに来て。
見えない震える両手の触覚を頼りに、ゆっくりカップにを伸ばし、慎重にコーヒーを口に運ぶ。
彼と、最後にあったのはいつだったろうか。
飲み会の帰りにわたしの家に来て、タバコと居酒屋の匂いがするままベットに飛び込んでそのまま寝てしまった時だったか。わたしはその次の日の朝、かいがいしく朝ごはんを作り、目を覚ました彼にシャワーを浴びるように促したんだっけ。
『お前は目玉焼きを焼くのが上手だ』というのが、数少ないわたしへの褒め言葉だった。

そんなことを考えているうちに、残っていた指も消え、袖を捲り上げると肘から肩にかけても消えていた。
ああ、そのうちに服だけが動いているようになるのかしら。全て透明になってしまったらどうやって生きていくのかしら。血の気が引いていくような思いだ。

そわそわしながらもう一度洗面台の前に向かう。
鏡の向こうには、顔、というより頭が半分ないわたしの姿があった。
これは、もう、どうしようもないのかもしれない。

彼に電話をかける。
当然のように、彼は出ることがない。
もしかしたらわたしは彼にとって、いない人間なのかもしれない。

もう一度キッチンに行き、卵を冷蔵庫から取り出す。
卵にヒビを入れるのは、透明であろうと自然にできる。ただ、卵が自分で割られに角に突進していっているかのように見えてシュールだ。
問題は、ヒビに指を入れるところ。指先の感覚に神経を注ぐ。
でも、考えすぎずにいつもの通りに。
割れた卵の殻から、どぅるり、と中身がお椀にダイブする。殻は入っていない。さっきコンロに置いたフライパンにサラダ油を入れ、火にかける。

彼は、カリカリに焼いた、黄身にほとんど火が通っていない目玉焼きが好きだ。でも、わたしはしっかり蒸して白く覆われて火が通り切った黄身が好きだった。
もういいのだ、もし消えてしまうなら、最後に自分が好きなものを作って食べよう。
ハムを先に焼いて、その上に割った卵を乗せるように流し込む。
このハムエッグは、昔母親が生きていたころよく朝ごはんに作ってくれていたものだ。彼は、ハムじゃなくてベーコンにしろって言ってたっけ。

卵が白くなってきたので、水を淹れてフライパンに蓋をする。
その間に、玄関にある姿見でもう一度自分のすがたを確認する。
もうそこには、服が立っているだけだった。

パンをトーストしているうちに、フライパンではふつふつとした音が、ジューという焼ける音に変わった。
蓋を開け、パンとハムエッグを皿に盛り塩胡椒を振った。
テーブルにつき、この後自分はどうなるんだろう、という気持ちを飲み込むように、パンとハムエッグを交互に口に運ぶ。
柔らかい白身からはみ出て、少しかたくなったハムを噛み締めるのが好きだったな、と思い出しながら食べた。

スマホの通知は、黙ったままだ。

お腹が膨れて、少しだけ気分が和らぐ。
なんだか眠くなってきたので、もう一度ベッドに潜る。
このまま少しずつ、透明になったわたしは、体積もうしなって、跡形もなくなるのかしら。

でも、とてもとても、眠いなあ。
眠いと怖いこともわすれてしまいそう。

大丈夫、明日も休みだ。
おやすみなさい。

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