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苦しみの底なし沼

自分のダメ出しをし続けているということは、かなり傲慢な状態であるといえる。

何せ『私』は徹底的に自分を裁き、罰し続けるおエライ誰かさんなのである。

その一方のダメだ、ダメだ、と罰を与えられているのも『私』で、こんなことをし続けていたら、どこかで身体や精神が壊れるのは、むしろ当たり前なのかもしれない。

そのダメ出しの基準のほとんどが、自分の感覚からきているわけでなく、何かから誰かから教えられたルールを採用したものである。

そのルールに基づいて自分を罰し続けているうちに、快感になってしまっているだけかもしれない。

やめられないお酒、甘い物の過食(私はこれが最高に行き過ぎた時、とうとう身体が悲鳴をあげ入院した経験がある)

暴力をふるわれること、ふるうこと(これもどちらも経験してきたが)とにかくやりたくない、むしろやめたい、と思えば思うほどやってしまったり、そこから逃げられなくなっていく。

底なし沼という言葉はよく出来ていると思う。

本当に底が、終わりがないのだ。

そして、底なし沼にいる間中、泥をつけあい、誰かが脱け出そうとしないか見張り、お互いもっと泥をつけられるのではないか、足をひっぱられるのではないか、といった様々な恐怖に襲われ続けている。

本当はひとりで立ち上がって
スタスタと底なし沼を出ることを選んだらいいのだが、底しか知らないのと、ここを出たら嫌われるのでないか、
生きていけないのではないか、
という謎の思い込みで身動きがとれない。

日本という国はきっと、どんな選択をして生きることも許されているはずであるが、多くの人の合意をとれないことをするのはいけないことだ、
と固く信じているうちは、
何ひとつ自由などなく、
ましてや自分をいたわったり、大切にするということがなんであるのか、私たちは気づかないのかもしれない。

日々ビックリするほど自分に嘘をついていることにさえ、全く気づけないことも多い。

自分の感覚に嘘を塗りたくって生きているよ、
とのお知らせが身体の不調であったり、
何か生活に支障をきたす出来事だったりするのだが、根本的に自分を追い詰めている『声』がなんであるのか気づかないと、
底なし沼を出るきっかけになるはずの出来事が、ひたすら自分を追い込むまたとない機会になってしまう。

自分の感覚に嘘をつく必要はないし、
嘘をついている人の嘘を受け取る必要もない。

誰かが投げてくる嘘をどうにかして受け取ろうとして「私のためを思っていってくれている」
と自分の思いに二重に嘘を重ねなくていい。

あなたのためを思って、とか、これは良いことだ、
とか、どんな耳障りの良い言葉を投げかけられても、自分が「違う」と思ったら、それに従う必要はないのだ。

自分にあれもこれも罰を課していると、
当然人のことも気になってしまう。

何せ自分で自分を追い詰めて、
日々息も絶え絶えなのだから、
楽々生きてる人が気になって気になって仕方がなくなるだろう。
そして、自分より酷い状態の人も気になるだろう。
あの人よりマシだ、と
思いたいという思いが浮かぶ。

こういった連鎖はループのように終わりがなく、
断ち切ろうとする時には
猛烈な罪悪感や寂しさ、孤独、
諸々と向き合う必要がでてくる。


それでも、そういった負の感情と向かい合い、
少しずつ底なし沼から遠ざかっていく時、
人は本当の意味で大人へと成長していくのかもしれない。


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ほんの少し『私』を振り返った龍公愛実プロフィール

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