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別れ ー死ー

「話せるうちに話したい人と話ておくの」
電話の向こうの麻衣さんの声は
以前と変わらずとても静かだった。

「うん」

私はただその静かな声に頷いた。

どう声をかけたらいいのか正直わからなかったし、何も言わなくとも伝えたいことは伝わっている気がしていた。

「もうね、泣けて泣けてしょうがないんだ。
きっと脳がバカになっちゃってるんだよね」

泣き笑いしている麻衣さんの声。

「そうなんだ」

そんなセリフを聞きながら、
携帯電話を耳にあてている私も泣きそうだった。

「こっちへ来ることがあったら寄ってね。
治療でお金もずっとかかってたけど、ほら、
私が死んだら生命保険で払えるし」

家を買ったいきさつを話ながら、彼女は言った。

そんな会話を交わしながら、
もう会うことはないかもしれない、と心のどこかでお互い覚悟していたような気がする。

彼女と知り合った10年前、彼女のひとり息子は4歳だった。
既に乳ガンの手術を終えていた彼女は
「もう少しね。もう少し見ていたいよね」
と言っていた。

麻衣さんとは、たまたま物創りの講座に顔を出したことで知り合ったが、しばらくの間は病気のことは全く知らずにいた。

病気のことを知った後も、特に親密な付き合いになったわけではないが、1か月に一度は連絡を取り合ったり、年に一度は顔を合わせる機会があったり、息子さんの可愛らしい字を添えて手紙をもらうこともあったり、なんとなく付き合いが続いていた。

出会った当初からSNSの発信を積極的にしていた彼女からは、癌の面影がまったく感じられない時もあったが、いつの間にか病魔はゆっくりと確実に彼女を蝕んでいった。


麻衣さんと知り合う5年前。

友人が大腸癌で亡くなった経験のあった私は、
麻衣さんとのやりとりのなかで、やりきれなかった当時のことを思い出すことも多かった。

友人は当時まだ30代前半という若さだったということもあり、癌はあっという間に進行し、病院のベットで日に日に動けなくなっていった。

快活で活動的で思いやり溢れる奈美。

人ってこうやって何にでも恵まれてる人がいるんだよね。不公平だ。

学生の頃から人の輪の中心で頭も良く、素敵なパートナーにも恵まれていた彼女に羨望とささやかな嫉妬を感じていた。

その奈美が。

癌の進行がどうにもならないとわかった当時、彼女の娘はまだ2歳。

奈美のお母さんは病院にいる奈美に変わり、孫の面倒を見ていた。
家が近かったこともあり、時折奈美の様子を聞きがてら奈美の実家に立ち寄る私に向かって
「もう少し最初の時、お医者さんがよく診てくれてたら…」
何度も何度もそう繰り返していた。

自分も奈美の娘と同い年に娘を産んでいた私は、つつがなく日々を過ごしている自分に意味もなく罪悪感にかられる時もあれば、奈美がいなくなるという現実が迫ることが怖くて、癌に良いと言われるものを探して勧めることもあった。

それがたとえ、良心から出たことであっても、その人の心を締め付けることもあるとは、その時の私にはまだわからなかった。

最後に病室で話した時も、奈美は笑顔だった。

その姿を私に遺して、彼女は夏の陽射しが照りつけていた日に旅立っていった。

ご主人と、小さな娘、そしてご両親、お姉さんに宛てた遺書が綺麗に残されていた。

「本当にバカな子で…最後まで…」

奈美のお母さんは、その話をしながら声も出さないままに泣き崩れた。

3歳の誕生日を目前にした奈美の娘さんは、わかっているのかいないのか、パパの側で時折笑顔を見せていた。

「お医者さんがもっときちんと診てくれてたら…」

奈美が身体の不調を訴えた時、最初にかかった病院の先生の対応を嘆き続けていた奈美のお母さんは、奈美の後を追うようにその2年後に他界した。

奈美と同じ大腸癌だった。

「癌はね。でもいいとこもあるのよ。事故や発作とか、脳の血管切れた、だとその瞬間で死んじゃうけど、このくらいで死ぬかも、ってわかるから準備ができるの」

麻衣さんの言葉に、ハッとさせられた。
奈美が全く同じことを言っていたのを思い出したのだ。

麻衣さんがこの十年、再発の不安と折り合いをつけつつ過ごす中で再発。また手術と確実に死が近づいてくるなかでら彼女の発信は研ぎ澄まされていき、特に写真の美しさにはみとれることも多かった。

「何か形にしたらいいのに」
思わず口にしてしまった私に
「里恵さん、そういうことじゃないのよ」
と彼女は少し悲し気な表情になった。

私は「しまった」と思った。

大きな何かさえなければ、必ず明日が来る、と思って生きている者と、その日1分1秒が確実にこの世界から遠ざかるとわかっている者では、やることひとつの意味が違ってくる。

今思うと、死が迫る奈美に、こちらの勝手な重たい思いばかり投げてしまっていたことが悔やまれた。

少しずつ麻衣さんとの連絡が遠ざかるなかで、私は彼女の生き様をしっかり見届けることだけを決めていた。

「こういうのが良いですよ、とか、これをやらなかったから癌が治らなかったんですよ、とか、もう、本当にそういうのいいんだ」

段々電話の声がか細くなっていくなかで、麻衣さんが絞り出すように言った。

「またね」

「うん、またね」

またね、はないかもしれない最後の挨拶を11月の末に私たちは交わした。

年末には麻衣さんのSNSの更新は止まり、年明け連絡がない彼女にメールを入れてみた。

1週間後、麻衣さんの旦那さんから年が開けて5日目に、麻衣さんが永眠したというメールの連絡が入った。

話には良く聞いていたけれど、
「ああ、これが麻衣さんのだんなさんか」

そんな考えがよぎった。

悲しかったけれど、悲しみと一緒に麻衣さんは最後まで生き切ったんだ、と不思議と安心したような気持ちになった。

簡単な挨拶しか書かれていない旦那さんのメールからも、満足感のような物が漂っているのを感じた。

結婚生活のほとんどを麻衣さんの病気と一緒に過ごしたであろう旦那さん。

「もうここまできたら大丈夫かな、って。
もちろんさ、成人式が見たいとか、お嫁さんが見たいとか、孫がって言い出したらキリないし、ホントはそうだけど…」

彼女がもう少し見ていたい、と言っていた息子さんは中学3年生になっていた。

私はメールを閉じながら
「またね」と言っていた麻衣さんの声を思い出していた。

麻衣さん、またね。

私は目から流れ落ちた涙をそのままに、麻衣さんが好きだと言っていた、ショッピングセンターのケーキ屋さんへ向かうために車のエンジンをかけた。


※この物語はフィクションです。







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