ムンク展とフェルメール展から気づいた美術の見方

この間の日曜日、東京都美術館の「ムンク展」と上野の森美術館の「フェルメール展」に足を運んだ。

どちらも非常に有名な画家の展示かつ、日曜日だったためか、上野公園は人がごった返していた。美術館内も、絵を見るための長い列が形成されており、それぞれ2時間ぐらい鑑賞に要したと思う。

人の波に揉まれながらも目に映った作品の中には、強烈な印象を残すものが少なくなかった。
ムンクの「叫び」、「接吻」、「生命のダンス」、そしてフェルメールの「牛乳を注ぐ女」、「手紙を書く女」、「真珠の首飾りの女」がそうであった。

特にインパクトの大きさだけで言ったら、ムンクの「叫び」が圧倒的であった。
絵の中全体を巡る、血の流れのような線の描写から、彼の憂鬱や孤独、不安が暴力的に視覚を通じて脳に焼き付けられ、強い絶望感を味わった。

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『叫び』オスロ市立ムンク美術館蔵
引用先 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Scream#/media/File:Edvard_Munch_-_The_Scream_-_Google_Art_Project.jpg


一方フェルメールの作品は、ムンクと対照的で日常の様子をやや写実的に切り取った風俗画を中心に構成されている。そうした意味で、ムンクと比べた場合に感じたインパクトは、やや欠けていた。

だがフェルメールの作品には、そうした衝撃というよりは、なんだか、魂も一緒に抜け出してしまいそうなため息を思わずついてしまう魅力があった。

「真珠の首飾りの女」は、そんな感想を強く抱いた作品の一つである。
この作品では、真っ白な壁が大部分を占め、その左右に真珠の首飾りをつけようとする女と、その女が映る鏡が見える。
決して明るくはない室内だが、だからこそ彼女の首飾りと耳飾りに見える真珠と、女の目に映る光が輝いて見える。この光の描写がまた絶妙である。
限りなく最小限に要素や色彩や人物の動作が絞り込まれたこの作品は、きわだって抑制がききながらも、見る人の心を動かすものとなっている。

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『真珠の首飾りの女』ベルリン国立美術館蔵
引用先
https://en.wikipedia.org/wiki/Woman_with_a_Pearl_Necklace#/media/File:Jan_Vermeer_van_Delft_-_Young_Woman_with_a_Pearl_Necklace_-_Google_Art_Project.jpg


一方は、死に自覚的で、見えるものではなく見たものを描き、人間ならできれば避けたいであろう感情である不安や絶望を惜しみなく表現するムンク。

もう一方は、写実的に、静謐に、永遠に続くような日常を描くフェルメール。

両者の作品は、素人目で見てもそれぞれ異なるベクトルの感動を味わうことができて、とても新鮮であった。


たぶん、この二者は比較すると色々面白いことが言えそうな気がする。
例えば、「彼らが描く人物像の内、どちらがより生き生きしているか?」なんて問いをぶつけたらどうだろう。

身内の死が相次ぎ、自殺を考えたこともあるムンクは、ハイデガー的に言えば、本気で死を意識した経験があるからこそ本当の生に自覚的である。だから彼が描く人物像も生き生きしていると考えられる。

しかし、一般的に考えれば、写実的に表されているフェルメールの描く人物像の方が、ムンクの描く人物像に比べれば生き生きしているともいえるだろう。

これはそもそも比較できない話なのかもしれない。
しかし、こうした見方を試みようとすること自体に、意味があると私は思う。

「わたしたちが美術館に行くのは、美術館では、あらゆるものにたいして違った見方をするという経験ができるからです。わたしたちが芸術に触れるなかで学んでいくのは、「確固とした世界秩序のなかで、わたしたちはたんに受動的な鑑賞者にすぎない」という想定から自らを解放することにほかなりません。」
マルクス・ガブリエル(2018)『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)講談社 p. 244

「生き生きした」を考える以上のような見方に限らず、あらゆるものにたいして違った見方をし、それを考えることで、作品と画家への理解がより深まり、新たな気付きが得られる。またこのような取り組みが、常識や偏見などの色眼鏡をかけたままの「受動的な鑑賞者」としての自身を解放することに繋がるのだと思う。







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