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こんなにも沢山の選択肢を与えてくれているくせに、どうして「何もしない」という選択はさせてくれないのか

「こうやって遊んでいられるのも今だけだぞ。今のうちいっぱい楽しめよ!」
小学生くらいの男の子たちに、爽やかに声をかける先生らしき人をみかけた。

私はこの言葉を聞くと、少し切なくなる。

鬼ごっこ、シール交換、おしゃべり、交換日記。
子どもだった私にとってこれらは全て日常の一部であり、比較的楽しい暇つぶしであって、「楽しい遊び」として認識したことはなかった。

それほど豪快に遊んでいるという自覚がないのにも関わらず
「遊んでいられるのも今だけだ」
と言われるのは、これから先は今以上に楽しいことはないと言われているようでとても寂しかったし、そう言われるたびに大人にはなりたくないものだな、と思っていた。

悪気がないことは分かっているからこそ、その言葉はなおさら現実味を帯びていた。

そしてこのような悪気のない脅し文句は、大人になった今もそこらじゅうに転がっているように思う。

ネットや雑誌を開けば、会社員の年齢別平均年収や、世帯別平均年収、子育てに必要な資金に老後に必要な資金まで、それは丁寧に「平均値」を教えてくれる。
さらには、年収別幸福度まで教えてくれたりもする。

見たくなくとも「あなたにオススメの情報」などと表示されて、全っ然放っておいてくれないのだ。(見たくないのにまんまと開く私にも腹がたつ。)

平均値を見せてくるのは、何故だろう。

自分は平均に至っていないから妬んでるのか?そんな風に考えてもみたが、それを抜きにしても、やはり私にとって平均値とは脅しのようなものなのだ。

子育てについてもそう。
子育てについての悩みを一つ検索したりすると、

「魔の2歳児」「悪魔の3歳児」「4歳の壁」「5歳の中間反抗期」「小1の壁」「10歳の壁」

様々なハードルがこんなにもあなたを待ち受けていますよ!とばかりに並べられ、丁寧に解説されている。

2歳と3歳の前につく「魔」と「悪魔」の使い分けについては「まさか同じワードを使うのは芸がないからとかいう理由で変えたんじゃないだろうね?」と疑いたくなるし、

「○○の壁」については、「使い勝手の良いちょうどいいワードを見つけたぞ!と思ったものの、あまりに続くのも芸がないから5才あたりで中間反抗期などと緩急をつけてきたんじゃないだろうね?」とさえ思いたくなる。

平均やこれから起こるかもしれないハードな事柄を知っても意味がないように思う。
防げるかもしれないじゃないか、と言う人もいるが、疑り深い私は本当に防げるのかしら、と思うのだ。

一生に必要なお金は一人当たり約3億と脅されて、ヒィィィイ!となったところで、3億円用意できる自信はない。(ところで3億ある人は、安心しているのだろうか)

必要だといわれているんだから必要なんだろうが、今ないものは、ないしなぁ。
とりあえず、今月できるだけ楽しく過ごすことを目指す方が、私には切実なことで現実的なことだ。

こんなハードルが待ち構えていますよ!という脅しだって、完全に防げるなら教えてほしいし勉強するが、防げないハードルならこのまま知らずに、その都度その都度対処していきたい。最初から知らなければ、そもそもハードルだということにさえ気づかないかもしれない。

知っているのと知らないのでは不安の大きさが全く違う、などと聞くが、知ったところで結局不安なのだが。
(むしろ知った後の方が不安なのだが…!まさかそういう意味だったのだろうか。)

などといいながら私も、上の子が0歳の頃は今後起こりうるかもしれない様々なハードルを丁寧に調べ上げ、自分で調べ上げたにもかかわらずその恐怖に恐れおののき涙した。

そして気を紛らわそうと涙ながらにつけたテレビに、ベレー帽を被ったパンツ一丁の片岡鶴太郎氏が「今から内臓を外します」などと言って登場し、驚いた私は小さな娘とともに「あぐらをかいて腹をひっこめる片岡鶴太郎氏」を数分間見届けた記憶がある。

そして鶴太郎の内臓と共に私の涙も消え去り、ついでに育児情報を集めるのをやめたのだった。(片岡鶴太郎氏にはある意味で深く感謝している)

今回この文章を書くにあたって、当時検索した子育てに関するハードルをあらためて検索してみたところ、数年前より増えているように思う。

そしてあらためて思うのは、現在我が子は5歳だが、魔の2歳児だったこともなければ悪魔の3歳児だったこともない。
4才の壁もなかったし、現在も中間反抗期ではない。そうだったのかもしれないが、知らなければ「そうじゃない」のだ。

もしかして、あの時このハードルを真に受けていたら、

ショッピングモールのトイレで便座に座っていた時にふいに娘(当時2歳)にウォシュレットの「おしりボタン」を押されたという記憶も、
同時に水圧を最大に上げられたという記憶も、
そんな攻撃を受けてもなお公共の場だからという理由で声を押し殺して周囲を気遣う自分がいたという事実さえも、

全部全部「魔の2歳児」のせいにして泣いていたかもしれない。

こんなにもウォシュレットを見るたびに思い出す切なく愛おしい思い出なのに。

何だかイライラしてきた。

平均寿命もそう。
平均まで生きられなかったらその人は何だと言うのか。
趣味がある人は長生きする、生きがいがある人は健康状態も良好な人が多いし、死亡率は低めだし、幸福度は高めなどと言う。
若者だけじゃない。
シニアだってこんな風に脅されている。

様々な世代の人に生きがいや趣味、仕事に対するやりがいなどを持つことをお勧めするのは勝手だが、それらをお勧めする時に、死亡率や心身の健康、年収、幸福度などとリンクさせたりするのは脅し以外の何物でもないように思う。

そのくせ、好きなことをしすぎると
「好きなことを追求するのはいいけれど、それでは社会が回らない」
「そういう生き方は、世間にはなかなか許されないかもしれませんよね」
などと言う人もいる。

疑り深い私はここでもまた「まさかですが、自分が許せないだけなのに社会や世間のせいにしていませんよね…?」と疑わずにはいられない。

子どもの時は「遊んでいられるのは今だけだ」と言われ、結婚・出産したら「こんなにお金がかかるし、育児はハードルだらけ」と言われるし、年を取ったら「趣味や生きがいがないと死にやすい(そこまでは言っていないか)」「かといって人生100年時代だから蓄えないと生きていけない」などと脅され、
このままでは死ぬまで脅され続けそうだ。

そもそも、こんなにも沢山の選択肢を与えてくれているくせに、どうして何もしないという選択はさせてくれないのか。

ゼェゼェ。

どうした。何があったんだ自分。やけに怒っているではないか。

自分でもそんなことを思いながら興奮状態でこの文章を書いていたところ、夫から「これでも食べて休憩しない?」という素敵なお誘いがあった。
アイスコーヒーと一緒に差し出されるは、ケーキ。

ではない。

庭で獲れたキュウリと味噌マヨネーズだった。


しかも
「このアイスコーヒー美味しいね」
と言ったら
「濃く煮出しすぎたほうじ茶だよ」
と返ってきた。

興奮は良くないし、キュウリはうまいし、アイスコーヒーと濃く煮出したほうじ茶は紛らわしい。

そして「こうやって遊んでいられるのは今だけだぞ」と言われていた少年に、こうやって遊んでいられるのは意外と今だけじゃないと思うよ、と、そん時に言えばよかった。

次は言おう。
キュウリかじりながら言ったら、不安も増すだろうが説得力もちょっとは増すだろう。

そのためにも、明日もせっせとキュウリを育てるのみ。

「キュウリを育てるのは俺でしょうが」と夫は呆れて笑っている。

おわり。

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