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「ここは退屈」だけど、私は退屈じゃないって信じたい


新年あけましておめでとうございます。

年末年始は根拠のない高揚感から幕を開け、閉鎖的な虚無感に包まれながら幕を閉じます。いつもそうだ。このパワー所以は、良くも悪くも自分の帰る場所、故郷、地元、地方都市。ほっかほかのぬくもりではなく、冷たさにも暖かさにも振り切れない生ぬるい空気が漂う夜空を、凍える雪でなんとか澄んだものに保っているこの地方都市。

久しぶりに会う友達は約束した人もいれば、約束なしでばったり街中で会う人だって少なくない。最初の一撃バッタリは嬉しくて歓喜の声を上げるけれど、2発目、3発目と続くにつれてしんどくなる。家に帰る頃には憔悴しきっていて、実家で眠る家族を起こさぬようこっそりと帰宅する深夜3時、あー私何してんだろって1人でシラける。酔いはガン覚め。

東京に住んでいる友人が言ってた、この街はあと数年すれば廃れて消えてしまうだろうって。私はそこまで他人行儀に、この故郷を客観的にディスクライブできないんだよな。変なところで優しいのかもしれないし、偽善なのかもしれないけど、どれだけ故郷を揶揄しようと、切っても切り離せない根強いアイデンティティがここにある、そんな気がしてしまう。地元を完全に愛想つかして見放すことなど、できそうにもない。でも住んでみるとやはり息苦しく、出て行きたくてたまらなくなる。美味しい空気、家族だって大切だ、でも私はこの地方都市の呪縛からいつまで経っても逃れられない。だから、ごめん、やっぱり逃げるしかない。

こういうときに決まって読みたくなるのは、山内マリコさんの『ここは退屈迎えに来て』。世界で彼女だけが寄り添ってくれているような気持ちになる。(映画も見た)


私がこの本に出会ったのは、まさに自分が地元でくすぶっていたときだ。ゲーセンで働く椎名くんみたいにどこかやさぐれて、「あたし」みたいに何となく働いて、そしたら知り合いとも友達とも形容詞しがたい中途半端な関係の男の子(遠藤?)からこの本を教えてもらった。いろいろとわかるところがあるんじゃない、と言われて。読み始めると共感ばかりだった。登場人物の生き様だけでなく、地方都市あるあるの広いバイパス、そこに並ぶ巨大チェーンの飲食店、廃れた商店街、等々、ありとあらゆる描写が私の心臓を抉った。この本から生まれる共感に嬉しさは全然なく、ただただしんどかった。

地元を離れて一人暮らしを始める際、この本だけは(好きな本だけど)部屋の本棚に置いていくと決めていた。完全に直感、でも今はその理由がよくわかる。都心に住んでいるときは都会の寂しさ無慈悲さそれでもそこに宿る微かな個人的希望を描く最果タヒさんの詩を求めるのに、田舎にうんざりしている最中の私、都会の徹底した無慈悲さが恋しくてたまらなくなる。だから、タヒさん渇望欲求は地元に帰ると途端に収まり、逆に都心では避けて通る山内マリコさんのこの本を、地方のじっとりとした閉鎖感を、まさに地方都市の生ぬるい温度に包まれながら一人こっそりと飲み込み、苦しみ、そしてフラストレーションを消化する。

地方出身者にとってこの本は、あまりにも痛い。心臓がヒリヒリして、胃がキリキリして、途中で読むのをやめたって言っている知人もいる。山内マリコさんの言葉は軽やかで読みやすく、その読みやすさが逆に、地方独特の温度や現実をすらすらと飲み込ませ、気がついたら胸がパンパンになる。

故郷に帰るといつも思い出す、あの感覚。本の中で味わったのか、それとも私の現実として味わったのか、もう線引きは曖昧ではっきりと思い出せない。閉鎖的空間でくすぶる時間は、苦しいというより、不安というより、どこか守られていて、離れようとすれば恋しくて、でもやっぱり息が詰まる。その繰り返しで、息詰まる頻度が増えるにつれ、どこかに飛び出したいと強く思い始める、あの感覚。

私にとってこの本は、はみ出してきた当時の感覚を飼い慣らし、落とし込み、直視し、納得し、また顔を上げるための本だ。地方都市のどうしようもなさを、ありのままで、どうしようもないままで消化するため。簡単には開けないけれど、開くべきときにページをめくりたい。都会にいるときも、帰省にわくわくしているときも、決して必要のないもの。だけど、地元と向き合う中で湧き出す暗雲は、徹底的に向き合うことで薄く軽くなる。私はこの本を通して自分自身と向き合い、切っても切り離せない地元のことを思い、その苦しいアイデンティティをなんとか前を向く材料にしたい、なんて、今年も懲りずに願っている。


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