見出し画像

ジェンダーと偏見3

Other people. They'll tell you what to do, how to feel…
問題は周りの人たちね。行動や感情を指図してくる人たち

Before you know it…
知らぬ間に-

…you're pouring your life out
人生をムダにしてしまう

in search of something other people told you to go look for.
言いなりになってね
Netflixドラマ「クイーンズギャンビット」エピソード5
/和訳はNetflix


IATテスト

以前の記事「ジェンダーと偏見」「ジェンダーと偏見2」に書いたIATテスト(偏見テスト)の結果を見てこう思った人はいません?

『なぜこいつは女性側につくんだ?』


しかし、私のジェンダー/キャリアテストの結果は、

女性/男性のジェンダーとキャリア/家庭について偏見(automatic association)がないか、ほとんどない(little)

でした。
女性側についていません。もちろん男性側にも。
もし女性側についていると思ったのなら、それ自体が偏見(バイアス)です。(「つく」自体がそもそも意味不明ですけどね)


一方、ジェンダー/科学テストの結果は、

女性/男性のジェンダーと科学/人文科学(リベラルアーツ)との結びつき(association)について、科学は女性と人文科学は男性と結びつく穏やかな(moderate)偏見がある

でした。多数派とは逆の偏見があります。

なぜ、こういう結果になったのでしょう?
(ジェンダー/科学テストの結果は自分でもちょっと意外でした)

ジェンダー/キャリア

キャリアテストの結果には、女性と男性が融合したandrogyneであることの影響があるのかもしれません。また、子どものころから「男(女)だから○○しろ」とか「○○しなければならない」という周囲の大人の言葉は全て嘘だと思い、自分が強制されたときや誰かが言われたときには反発し続けてきました。なぜ、大人たちは、誰もがわかる明白な嘘をつき続けるのだろう、としか思いませんでした。こういう生まれつきの性質が影響しているのかもしれません。なお、生まれつきの性質であることには、詩「果実」で「僕」が思っているように、何の理由もありません。
(なお、果実の主人公である「僕」は生物学的にはfemaleです。彼がどういう生きものであるかはおわかりですよね)

しかし、普段から意識しようとしていることの影響が別にありそうです。

以前の記事に書いたとおり、私が20歳になるまで過ごした家庭は酷い状態でした。そして、その酷い状態を解消するには、両親の離婚しかなかったことはわかりきっていました。

離婚の前に立ちはだかるのは、性別に依存する根拠のない経済的な壁です。現実に存在する、絶望的なまでに厚く高い壁。女性、とくに子どもを持つ女性にとって、当時、そしておそらくは今も、経済的な理由で離婚を思いとどまざるをえない状況は容易に想像できます。

ジェンダー/キャリアの関係はバイアスのない状態にすべきとの意識は、子どものころの自分と、同じような状況にある子どもたちを救うためでもあるのです。自分にとって。

たとえ形式的であっても家族の体面の維持こそが大事だと思い込んでる人たちには理解できないでしょうが、私は、子どもの自分を見殺しにしたくない、大丈夫だからと心から抱きしめたいだけです。この欲求はとても強くて、それ故に、自分の意識が変わることはありません。

余談ですが、子どもの自分を抱きしめている自分の心では、女性の部分(コアであるfemaleとandrogyneのfemaleの部分)がとても強くなります。なぜ強くなるのか?
そこに理由はありません。

ジェンダー/科学

科学テストの結果にも、生まれつきの性質が影響しているように思います。しかし、逆の偏見を持つにまで至った理由がすぐにはわからなくて、考え込んでしまいました。今のところ次のように考えています。

生まれつきの性質については、10代のとき、科学が純粋に好きで大量に本を読んでいた時期に性別が混乱していたこと、このときから、いわゆるホモソーシャルが大嫌いだったことがありそうです。

いろいろ考えているうちに、大学受験のときに受けた全国模試の物理の試験で成績優秀者として掲載された自分の名前がなぜか一文字欠落していて女性の名前になっており、そのことがとても嬉しかったことを思い出しました。嬉しかったのは、普段は表に出てこない自分の中の女性の部分が認められたような感じがしたのと、他の優秀者が男子ばかりで、こいつら絶対これ見てびびってるだろうなと想像できてとても愉快だったためです。そのときはただの想像でしたが、社会に出てから出会った男性たち(とくに成績優秀者に名前が載るような男性たち)を思い返せば、あれは10代のときのただの想像ではなく、実際、本当にそうであったであろうことは断言できます。残念だったのは、女性の名前で載ったのが1回だけだったことですね。もっと彼らをびびらせたかった・・・

こういう性質が逆の偏見につながっていそうです。

ところで、念のために言いますが、成績優秀者に名前がないからといって、女性が物理の能力に劣るわけではありません。ただの模試の成績と能力は直接関係しません。そして、女性が成長する上で物理などの特定の分野からそらされていく強いバイアスが社会に存在することが知られています。ここに書いている出来事は30年以上も前の話で、バイアスはとても強かったはずです。

そして、実際に社会に出てから女性に育ててもらったのはこれまでに書いたとおりです。彼女たちはとても優秀でした。今でも深く心に刻み込まれています。この感覚が影響しているのは間違いないと思います。


さて、多数派とは逆の偏見ですが、修正していくべきでしょうか?

何日か考えてみたのですが、残念ながら、まだ修正していくべき状況には達していないように思います。昔に比べて改善されてきているのは事実ですが、まだまだ不十分です。ジェンダーを理由に特定の人たちを科学から遠ざけるバイアスは誰も幸せにしません。

そして、見かけ上、バイアスが解消されるだけでは意味がありません。冒頭に書いたベスのお母さん(数学者)の言葉を思い出してください。noteを眺めていても思いますが、相手が女性であるとやたらと「指図しようとする」人がいます。感情までもです。このこと自体を改めていく必要があるように思います。

追記
とても良い記事を見つけました。

追記2
今朝、たまたまツイートが流れてきたのですが、昔はこういう状況だったようです。家政学部の中に工学科や理学科があったんですね。知りませんでした。

追記3
「指図しようとする」には、例えばこういうものも含まれます。女性、とりわけプロフィールから明らかに年下であることがわかっている若い女性に対して、「いろいろよく学んで勉強していってください」という人。noteのユーザーは丁寧で穏やかな人が多いように思えます(とても居心地がいいです)。このためか、もしかして、「学んで勉強していってください」と言われることに違和感がないのかもしれません。でも、やっぱり、noteのような場所で「学んで勉強していってください」は変です。せいぜい、「もし、わからないことがあったら遠慮せずに聞いてください」あたりが一人の独立した人に対する妥当な態度であるように思います。
そして、これは容易に想像がつくと思いますが、「指図しようとする」には、無根拠な批判や否定が含まれます。最近はハラスメントが問題視されているので、「だから女は」と直接明言する人は少なくなっていると思います。でも、よく注意して相手の言うことや態度をみてください。ジェンダーを理由に無根拠な批判や否定をする人は依然としてたくさんいます。