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斎藤幸平氏はじめとする左派・リベラルの「脱成長論」に対して、異論を差しはさんでみる。ゆるやかなインフレと経済成長は、実質、負債の持つ暴力性に対する「徳政令」として機能して来たのではないか。読書していて思いついたことなので、とりあえずのメモです。

 斎藤幸平氏らの「脱成長論」について、リベラルサイドの人からも「長期デフレでただでさえ貧しくなって死にかけている人たちが、脱成長したら本当に死んでしまうぞ」という反論が出ていることについて。僕もそんな感じがするので、ちょっと複雑だけれど、大事なことだから、書きます。



 今、ギリシャの経済危機のときに財務大臣をやって、EUから緊縮策をおしつけられたのと戦った経緯を書いたバルファキス氏の『黒い匣』を読んでいる途中で、読みながら、いろいろ雑念というか,思考が頭の中を渦巻いてしまうので、ちょっと整理するために書きます。思いついたばかりのことなので、本を読んでいるうちに、また考えが変わるかもしれません。



 いちばん考えるのは、ディヴィッド・グレーバーの『負債論』のことなのだよな。



 「借りたものは返さなければいけない」ということを倫理的なものとして、貧しい人の心に内面化させるということは、近現代になって起きたことではなく、文化人類学者であるグレーバーが研究したマダガスカルやアフリカの原始的部族社会にも存在していて、貨幣より先に「負債」があり、「負債」を倫理的なものとして弱い立場の人に負わせることで、奴隷にしたり、性的に搾取したりするということから経済活動とか貨幣とかいうことは起きた。原始部族社会から、四大文明から、古代中世近世近代まで、そして現代も、その基本構造は変わらない、というのが『負債論』の一番中心にあるメッセージなのだよね。


 そして、歴史的には、そういう負債で社会があまりに動かなくなると、いわゆる借金の棒引き、「徳政令」が、洋の東西を問わず、発せられてきたわけ。


 でね、徳政令までいかなくても、「債務整理」をすることの方が、本当は道徳的で、「債務整理」をした上で、ある程度借金を棒引きすることで、債務者を立ち直らせることこそが道徳的なわけ。債務整理しないで、なんだかんだと仕組みを作っては、借金に債務者を縛り付けて、奴隷のように搾り取るだけ搾り取る、という債権者の振る舞いこそが非・道徳的というか、悪だと考えられるわけだ。この考え方は、そのまんま、『黒い匣』における、ギリシャ財務大臣としてEU、ECB、IMFと戦ったバルファキスの考え方なわけだ。


 でね、僕の頭のなかには「借金の減額こそが正しい」「徳政令こそが解決策」ということが頭の中を渦巻いているわけ。

たとえば、莫大な奨学金の借金を負って社会に出る若者が、ものすごく多いことは知ってる?大学生の五割が何らかの奨学金を利用しているのだよ、今。豊かなわが友人たちは「嘘だあ」というかもしれないが、厳然たる事実。


 この莫大な奨学金という名の借金が、若者の結婚を遅らせ、子どもを持つことを躊躇させ、少子化のものすごく大きな原因になっているのだよ。この借金を厳しく取り立てることと、もう棒引きしちゃうことと、どちらが倫理的に正しいと思う?倫理的にというより、政策の損得論として、考えてみてもいいよ。少子化の進展止めて、日本社会が長期的に維持可能になるようにするメリットの方が、奨学金を若い人たちから取り立てるより、はるかにメリットが大きいだろう。


 という議論をすると「私は苦労して奨学金を返した。借金を返すのは当たり前のこと。」という「負債を倫理的問題と考える呪縛」に囚われた老人から中年くらいの人たちが、必ず登場するわけ。
 さて、ここで、今日、一番書きたいことに、ようやくたどり着きます。経済成長により、賃金も上昇し物価も上昇するというインフレは、実は「緩やかな徳政令」なんだということ。


 老人から中年の人が、「私は借りた奨学金を返した」というのは、当時の学費が安かったうえに、就職して働き始めた頃が、日本が経済成長していて、給与も上がった上に、物価もどんどん上がって、借金が相対的にどんどん軽くなった、実質、棒引きされていく時代だったことが大きいのだよね。たとえば大卒初任給が昭和40年には39900円。大学学費は国立1万2000円、私立で4~6万円。この年に私立大学の学費4年分と生活費の奨学金を背負って卒業したとしても60万円程度。初任給の15倍ほどの金額だ。(現在で言えば300万円の奨学金借金を背負っている感じだ。)


 ところかインフレで、30歳になる昭和48年には、初任給が月給が6万2300円、170%上がっている。物価もそれくらい上がっている。年功賃金での上昇分も含め、月給は12万円程度になっている。奨学金総額は30歳時点の月給の、せいぜい5倍程度になっている。もちろんそこまでにずいぶん返しているから、インフレと経済成長が続くと、奨学金という借金は、結婚、出産年齢にはほぼ気にならない程度になっていたのだ。

 奨学金をわしは苦労して返した、の本当は、それはご本人は苦労したという記憶としてもっているのは、個人の記憶だから文句は言わないが、今の若者がおかれている状況に比べると、客観的数字、統計的事実として、はるかに負担が少ない、年をとるごとに収入に対する比率がぐんぐん減るというものだったのだ。


 住宅ローンも、クルマのローンも全部一緒。GDPに占める国債残高も一緒。「経済成長と適度なインフレの持続」は、実質「ゆるやかな徳政令、借金の減額」として機能するのだ、ということ。借金が棒引きされるという見通しがある社会というのが、昭和の高度成長期だったということ。


 斎藤幸平氏はじめ「脱成長論者」は、経済成長を否定するのであれば、一緒に「定期的に徳政令で借金を棒引きにする仕組み」も提唱しないとダメだと思うのだよな。

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