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『有閑階級の理論』ソースタイン・ヴェブレン (著)村井章子(訳)ポストモダンな消費論の先駆けの本かと思ってまあいいかと読んでいなかったのだが全然違った。デヴィッド・グレーバー的アプローチの100年先駆けであり、平安貴族大河『光る君へ』理解にも有益な凄い本でした。

『有閑階級の理論』[新版] (ちくま学芸文庫 ウ 9-2) 文庫 – 2016/11/9

ソースタイン・ヴェブレン (著), 村井 章子 (翻訳)

Amazon内容紹介

このちくま学芸文庫版のAmazonページには内容紹介がないので、講談社学術文庫版 長いけれど正確な要約なので。

「社会の格差は人類の歴史上いつも存在しました。近代以前は、武人や聖職者といった上流階級は産業的な職業を持ちませんでした。その免除自体が、彼らの卓越した地位の経済的な表現でした。有閑階級は、社会が原始未開から野蛮状態へ(平和愛好的な生活習慣から好戦的生活習慣へ)と移行するあいだに、発生したものです。そして階級間、階級内での金銭的な闘いは、人間を産業的で節約的にしたのです。有閑階級は略奪文化とともに誕生しますが、金銭的文化段階への移行とともに、その意味はまったく新しくします。

近代産業社会の成立以降、上流の階層が、自らの力を見せつけるために、余暇や服装・家具・住宅・美食などの代行消費をするようになります。その虚栄心こそが消費の本質なのです。
 そして有閑階級は、高度産業社会の経済的必要性から(消費を牽引するから)、保護されています。また同時に、有閑階級制度は、下層階級から生活手段を取り上げ、消費を減少させ、結果的に新しい思考や適応に必要な努力の遂行を不可能にするのである。
 産業消費社会の構造を見事に抉りだした経済学・社会学の古典・名著です。読みやすい訳文に充実した訳注を付しました。新たに、「附論 経済学はなぜ進化論的科学でないのか」を追加した増補新訂版です。
原本:『有閑階級の理論』(ちくま学芸文庫)」

Amazon内容紹介

ここから僕の感想

 タイトルと装丁写真からは、なんかポストモダン消費論を先駆けたような、ブランドとかなんとかそういうことと関係ありそうな、「みせびらかし消費」みたいなことを先駆的に書いた、そういう本なのかなあ、と思って、買ったけど数年、ほったらかしになっていたんだわね。

 しかしね、ひょんなことから(後できっかけは書くけど)、どうもそういう本じゃなさそうだと分かって、読んだらば、全然、全く、そういう本ではなかったのだわ。

 読んだ感想を一言で言うと、100年早く、デヴィッド・グレーバー的問題意識と方法論をやった天才の、早すぎたすごい本、と言う感じでした。え、どういうこと。というのを、つらつら書いていこうと思います。

 その前にもう一言、今年の大河ドラマの『光る君へ』の、平安時代の貴族たちのやっていること、政治争いから祈祷から、学問や文学から、ポロみたいなスポーツ打毬から、贅沢な衣装から、なんでああいうことをあの時代やっていたかの、ものの見事な解説になっているのだわ、この本。もちろん平安時代についても日本についても一言も書かれてはいないのだけれど。え、どういうこと。というのも、説明していきたいと思うのだわね。

■デヴィッド・グレーバーの100年先駆けとしての本書

 デヴィッド・グレーバーのやったことっていうのは、まずオキュパイ・ウォールストリート運動で、1%と99%の、金融資本主義の権化たち1%への批判と言うのをやった、ということでしょ。

 この『有閑階級の理論』というのも、その100年ちょい前のアメリカの「金ぴか時代」、カーネギーだのロックフェラーだのモルガンだのという、大富豪、大資本家が現れ、贅沢の限りを尽くしたそういう「有閑階級」への猛烈な批判の本だと言うことなのだな。

 ただし、それは、社会主義主義的左翼的な批判ではなくて、この時代の言葉でいう「民族学」の視点から、論じられているのだな。

 次に、デヴィッド・グレーバーは、人類学者なわけで、『負債論』でも『民主主義の非西洋的起源』でも『万物の黎明』でも、人類学的な具体的知見から論じられているわけだ。『負債論』では、アダムスミスの商品貨幣論の部分への疑問、『民主主義の非西洋的起源』では民主主義が古代ギリシャ起源だという定説への疑問、『万物の黎明』では、ルソー的ないしはホッブス的原始状態から、農耕の開始を経て、階級や国家が生まれるという歴史の定説への疑問、これらを人類学的知見から大胆に否定していく、というのがグレーバーの基本的思考スタイルなわけだな。

 で、ウェブレンも、その当時のアメリカ社会の、大金持ち産業資本家の振る舞い、それに付随する社会の諸相を、近い過去の西洋の歴史からではなく、民族学、今でいう人類学の知見から、大胆に分析していく。これ、かなりグレーバースタイルの先駆け、という感じなのである。

 もちろん、両者にはものすごく違う点もあって、グレーバーは人類学的な具体的で詳細な事実、知見から論を組み立てるわけだが、ウェブレンは、「みんな知ってることだから」みたいなことを前書きでことわりつつ、具体的な民族学の文献などには一切触れないんだけどね。そこは違うところ。

 それに、ウェブレンが組み立てている「(原始)未開状態」⇒「野蛮時代(掠奪的時代)」⇒「準平和的時代(身分制度時代)」⇒「現代産業社会(現代の有閑階級と勤労階級(中間層と下層階級)」という社会進化論的な見方を、グレーバーは最後の『万物の黎明』で否定したわけなので、もちろんいろいろ違うのは当然なのだが。

 しかし、単なる経済理論でも、(その時点での)現代消費社会論でもなくて、人類史的な視点から、現在の社会の矛盾、特にごく少数の支配階級と勤労階級の分断、格差が生じている理由を分析考察していく、と言うアプローチは本当に「100数十年早かったデヴィッド・グレーバー」みたいな、そういう本なのである。

その上、途中で、支配的富裕層、有閑階級の富と権力を示すためだけの職業が生まれてくるメカニズムの説明をするところがあるのだけれど、それって、そのまんま『ブルシット・ジョブ』のはなしじゃんね。

 というわけでね、デヴィッド・グレーバーの本が好きな人が、この本読んだら、共通点も相違点も含めて、きっと、いろんなことを思うと思うのだよ。それくらいスケールの大きい内容なわけ。ただし、裏付けはグレーバーの本みたいには無い。「そんなもん、知ってるでしょ」的な書き方なんだけどね。

■今回読んだきっかけ、保立道久先生のnoteについて。

 今回、この本を読んだきっかけは、地震歴史学のほうで興味があってnoteをフォローしている保立道久氏に「『人種問題』と公共―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」というnoteがあって、それを読んだらばですね。
 ちょいと引用するね。(保立氏のnoteでは冒頭に人種や民族を扱うことについての様々な視点、注意点もまとめてあった上での、以下の記述であることはお断りしておく)

「(ハ)ソースティン・ヴェブレンの資本主義批判
ヴェブレン『有閑階級の理論』は「長頭ブロンド」(いわゆる北方人種ゲルマンなど)タイプのヨーロッパの男は西洋文化の他の民族要素に比較して略奪文化に先祖返り(退行)する才能をもっており、アメリカ植民地における彼らの行動はその大規模な事例であるとする。ヴェブレンの議論は該博な人類学的知識にもつづく体系であって、その論理はいわば「人種」論的な経済学というべきものである。それはWASPを中心としたアメリカの支配層がもっていた「人種意識」が、アメリカ植民野時代から一九世紀末期の資本主義の確立の時代まで一貫して連続していたこと、そしてアメリカ資本主義の人種主義的性格を端的に指摘した仕事である。
 この略奪性が19世紀末に金融化したアメリカ資本主義における略奪性をもった「有閑階級」に遺伝している。彼らは、そのような略奪文化の歴史を前提として生産的な仕事(インダストリ)ではなく、銀行業や弁護士業などの金融的な詐取にかかわる金銭的な職業をバックとした略奪的な気質、敵愾心、習性をもっている。有閑階級の上品な生活は労働(Industryインダストリ)への寄生であり、労働は、その中で「製作本能(Workmanship)」の面よりも「勤労labor」の面を強くしている(三五九頁)と論じた。」

全文は以下リンクから

 とあって、えーーー、そんなことが書かれている本だったのかあ、とビックリして、本棚を探して、急いで読んだ、というわけだったのである。この本が書かれたのは1899年、19世紀末で、ダーウィンの進化論から派生して、いろんな領域で進化論が論じられたし、優生学とか人種主義もいちばん盛り上がっちゃっていた時期なので、こういう記述が実際、あるのだけれど、この「アングロサクソンの掠奪性の高さが、資本主義を準備し(陸上での囲い込みだけでなく、国家公認の海賊による富の集積をもたらした)というような類の本と言うのは結構今でもあるし(以前読んだ、ケルト系の人たちを周縁に追いやったアングロサクソンが、北欧から来たバイキング系の「掠奪文化」の人たちだったのは事実だし。以前読んだのは『海賊と資本主義 国家の周縁から絶えず世界を刷新してきたものたち』ジャン=フィリップ・ベルニュ (著), ロドルフ・デュラン (著), 谷口功一 だな。

 それに、最近、アメリカ文学に描かれる「自然に対する徹底的掠奪性」というのを『白鯨』とかその他いくつかの小説で僕も論じたわけだが、そういうのもこの保立さんの論と同じような視点だと思うのである。

 というわけでね、記号論的「みせびらかし消費論」みたいな本ではないのね、全然。

■大河ドラマ『光る君へ』とどう関係?

 「スポーツ」とか「狩猟」とか、女性のファッションとか、宗教とか様々な事象を、「(原始)未開状態」⇒「野蛮時代(掠奪的時代)」⇒「準平和的時代(身分制度時代)」⇒「現代産業社会(現代の有閑階級と勤労階級(中間層と下層階級)」という社会進化論的視点でぐいぐいと分析していくのだけれど、この中の「準平和的時代(身分制度時代)」というのが、ちょうど日本の歴史で言うと、平安時代にびったりなんだわね。富裕な権力階級は、生産的な労働をしないでいいということを示すために、まず、「衒示的閑暇」何もしない。特に女性には何もさせない。さらに「衒示的消費」、やたらと無駄遣いをする。男のやっていいのは、戦争、狩猟、政治、宗教だけ。学問や芸術も、生産的労働をしないことをしめすためのもの。

 あのドラマを見て、この本を読むと、ものすごい納得度なの。あのドラマ好きな人にも、すごくおすすめです。


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