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ごちゃまざな場がいい。分断の種の話。

こんにちは。

「『好き』で自信を創り、『好き』で社会とつながる」をビジョンに、発達障害児や不登校のお子さん向けにオンラインコミュニティとメンターマッチングサービスと教室運営をしている「Branch」の中里です。


ひさびさにnote書きます。

Branchは発達障害や不登校のお子さんの学校以外の居場所として長年活動しています。

どんな子が来ているかはこの記事が詳しいので、よろしければ御覧ください。


今回は「どんな居場所にしていきたいか」ということを書いていきます。

一言で言うと「ごちゃまざな場にしたい」ということです。


このことを書く前に少し自分の話をします。

自分はずいぶんと長いこと「すべての結果は自己責任である」という考えが正しいと思っていたし、それを周りの人にも強要してきていたように思います。
多分に新卒で入った会社の影響が大きいです。

これはこれで間違っていないんです。
自分のように、メンタルもフィジカルも強め人間はこういう思想に染まっておいた方が成長も早い、周りにも(あまり)迷惑かけない、成果も出せる。
仕事マッチョエリートになるためには、この考え方でいいんだと思うんです。

でも、当時の自分は「自己責任論では生きていけない人がたくさんいる」ということが見えていませんでした。


自分に見えてる世界があるということは、
同時に自分には見えていない世界があるということ。

何か一つ自分がポジショニングするということは、
他のポジションを否定するということ。


子どもの教育や哲学についてたくさんの著書がある苫野一徳氏はこのように言っています。

僕たちの社会では、生まれた家庭環境などのちがいによって、その後社会的地位に大きな差が出ていまうことがある。
たまたまお金持ちの家に生まれたおかげで、幼い頃から豊かな教育の機会に恵まれ、大きな社会的成功を収めることができる人たちがいる。でもその一方には、たまたま貧しい家に生まれて、満足な教育を受ける機会も得られず、その日暮らしの生活を余儀なくされる人たちがいる。
そんな社会を、みなさんはどう考えるだろうか?

こうした問題を、僕たちは基本的に自分の"経験"をもとにして考える。
~中略~
だれもが経験をもとにして考える。だからそのこと自体に、特に問題はない。
でも、そうした自分の経験を過度に"一般化"して、まるで絶対に正しいことであるかのように主張したとしたら、それは大きな問題だ。
~中略~
どれだけがんばっても、病気や親の介護といったさまざまな理由で、どうしても貧しさからははい上がれない人だっている。稼いだお金を、社会にどんどん還元しているお金持ちだってたくさんいるだろう。
にもかかわらず、僕たちはあまりにしばしば、自分の経験を過度に一般化してしまうのだ。
こうした思考を、僕は「一般化のワナ」と呼んでいる。

『はじめての哲学的思考』苫野一徳


社会は分断され続けていっていて、この分断は自分たちが生きている限り、広がり続けるように思う。

そのため、自分からは見えていない世界への想像力と、その見えない世界への優しさと親しみは絶対的に大切なことだと思う。



さて、話を戻して、ごちゃまざな場がなぜ良いか。

僕たちの運営しているコミュニティは、さまざまな理由から傷ついた子どもたち、ご家族が身を寄せ合っている。

傷ついた経験から、

  • ○○のような子たちとはなるべく距離を置きたい

  • 男親がいない場で話したい

  • 子どもに会わせるのは男性だけがいい(もしくは女性だけがいい)

  • 発達障害の話題は発達障害の子を持つ親とだけシェアしたい

など、大小あれど自分たちを守るために、実は小さな分断の種を植えています。

これはしょうがないこと、自分たちを守るためなんだから。


でも、少し元気になってきて、余裕ができてきたら、その分断の種の存在に気づき、分断の種をできるだけ取り去って欲しい。

僕たちは、まずはその傷が癒えるような場を作ることを努力する。

でも、過度に分断を生むような依頼は断っている。


子どもたちには今見えていない世界が存在することを知ってほしいから。
自分の見えてる世界だけがすべてではないと知ってほしいから。

自分の身と心が癒えてきたら(一番大事なのはここなので、まずは自分と自分の家族を大切に!!)、分断の種が存在していないか、少しだけ考えて欲しい。


なので、理想は誰もが同じ場所でごちゃまざになって対話し、遊び、泣き、笑い、喧嘩してもまた話し合って元通りになれる、そんな場所だと思っています。




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