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「人間が考える」ことと「コンピュータが計算をする」ことは、なにが違うのか?

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AI(人工知能)が大流行である。

最近あるところで、どのかの経営者の方がこんなことをいう場面に出くわした。「教育にも管理にも手間とコストがかかる人間を使うのはリスクである。文句も言わず働くAIを速く実用化してほしい」と。

リスク、とまで言われてしまった「ヒト」は、果たして仕事を取り上げられた後どうなるのだろうか。経営者氏は、そんなことは自分が関知することではいという様子。

黙って聞いていると、彼は熟考してこの結論に達したというよりも、誰かがそういうことを言っているのをどこかで聞いてきて、それを機械的にコピーして喋っている様子であった。

学習したパターンを機械的に再生する。もしかして彼こそ、開発段階の、バグ取り中のAIなのかもしれない? 

冗談はさておき。

こういう言説が平然と流通すると、「AIが仕事を奪う」という恐怖まじりの言説や「AIは人間とは違う。人間には真の創造性があり、AIに人間の代わりなんてできない」という言説もまた喜んで消費されるようになるのだろう。

「同じ」あるいは「違う」と言うことを可能にする用語の体系

ところで、AIと人間は、果たして何が違うのか? 

AIも人間も同じようなものだと言いたいわけではない。

人間と機械の対立関係を設定して、その上で、同じとか違うとか言うことを可能にする用語の体系をどういう構成にしておくとよいのか、という疑問である。

人間の概念とAIの概念、二つの概念を対立するものとして互いに区別する境界線をなんらかのやり方で引くことを可能にする用語たち。

互いに区別される言葉たちの体系。それはどうなっていればよいのか

「違う」と「同じ」

あるいは「違うけれど同じようなもの」「同じようなものだけれど違う」違い=差異に気づきつつ、その上で同じものとして扱う。このことは生命システムから、我々ホモ・サピエンスの複雑な言語に至るまで、あらゆる情報現象を貫く最も基本的な処理である。

人間とAIの違いは、人間が認識できる他のあらゆる差異と同様に、人間をAIとは異なるもの「として」区別し、AIを人間とは異なるもの「として」区別する処理によって生み出される

「中国語の部屋」の思考実験から

最近読んでいるテレンス・ディーコンの『ヒトはいかにして人となったか(="The symbolic species")』

この本では非常にあっさりと、ばっさりと、人間と機械を区別する考え方が示されている

すなわち、両者がやっていることの違いは、パースの記号論における表象の三階建てのあり方、イコン、インデックス、シンボルのうち、どこまでを扱うことができるか、その能力の違いであるという。

ディーコンはジョン・サールによる「中国語の部屋」と呼ばれる有名な思考実験へと話を運ぶ。「中国語の部屋」とは次のような思考実験である。

一人の人間が漢字の手引書をもってその部屋の中に居る。手引書には漢字の入力系統と出力系統の組み合わせが書いてある。その人物は中国語を知らないが、壁の孔を通して漢字が書かれた紙片が入れられると、手引書の漢字列を見て、別の紙片に出力すべきい漢字を写し、外に返す。もし手引書に入力と出力のあらゆる正しい組み合わせがあるならば、外にいる者は、部屋の中の誰かが中国語を読んで、考えて、答えてくると思うだろう。(テレンス・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』p.524)

この部屋の中に居る人は「中国語を知らない」つまり漢字が読めないのである。ちなみにサールは「中国語は知らないけれど漢字の意味がわかってしまう」日本人という人びとのことは特に条件に入れていない、ここでいう部屋の中に居る人は単に中国語を謎の符号としか受け取れない人である。

この人は、漢字が書かれた紙を見ても、中国語を母国語とする人が中国語でその「意味を理解する」ようなことは一切やっていない。

この中の人がやっていることは、手引書、つまりルールブック、コード一覧表に基づいて、入力された記号を別の記号に置き換えて出力する作業である。

これはまさに、エアコンや電気ポットのようなシンプルな家電の中のマイコンから、スーパーコンピュータまで、世のすべてのコンピュータが行っていることである。 

この中国語の部屋の思考実験は、「インデクシカルとシンボリックの表象過程の違い」を明らかにしている、とディーコンは説く。

インデクシカルな処理とシンボリックな処理の違い

この部屋の「中国語を知らないひと」がやっていることはインデクシカルな処理である。

入力される謎の符号(そう、この部屋の中の人は漢字が読めないのである)と同じものを手引書の中から探し出し、そこに書いてある指示に従って出力用の紙に出力符号を丁寧に書き写している。

このヒトにとっては符号と符号の関係が全てであり、彼が受け取り送り出す符号が「外の人間にとってはシンボルとして解釈されていることに「気づかない」(p.526)。

「中国語の部屋」の中のひとには「漢字と外部の事物との関係に内在するインデクシカル・システムへのアクセスがなく、また外部の事件や事物を互いにリンクするインデクスのセットもない」とディーコンは言う。

中の人にあるのは文字と文字、トークンとトークンの間のインデクシカルな連合だけである。

ひとがシンボリックな表象としての言語を操る時には(1)文字と文字のインデクシカルな関係、と(2)文字と外部の事物との関係に内在するインデクシカルな関係、そして(3)外部の事件や事物を互いにリンクするインデクシカルな関係、という3つのシステムを互いにリンクさせている。

ひとの心とコンピュータの違いはここにあると、ディーコンは説く

コンピュータも中国語の部屋も「窓のないモナド」である。プログラムと命令のセットになったインデクシカルな関係系は、内部的に循環的にレファレンスをもつに過ぎない

機械は、その内部に保持している紐付けリストを「レファレンス」しつづけているだけである。これに対して、人間の心は文字と文字のインデクシカルな体系を、認識された外的世界の体系と関係づける。人間の心には窓が開いており、インデクシカルな関係づけを、新たに、無数に、いくらでも、結びつけ増殖させていくことができる。

そしてののインデクシカルな関係同士を多重に結びつけることこそが、シンボルの誕生であり、人間の言葉の誕生である。

人間の言葉は、予めどこかに書き込まれた辞書に規定された通りに記号と記号を置き換える処理だけではなく、全く新たに、記号と記号の置き換え関係を試し、設立することができる。これは意味を新たに生み出せるということであり、それこそがインデクシカルな関係を動的な関係づけのプロセスに変換する、シンボルの力なのである。

「記号ウイルス」

ディーコンは次のように書く。

ヒトは記号を使うただの種ではない。記号的な宇宙はヒトを逃れられない網に虜にした。記号的適応は「マインドウイルス」となってヒトに感染し、いまや抗しきれない力で、遭遇する万物万人を記号化しようとする。ヒトは記号ウイルスが世界中に蔓延する媒体となった。p.514

ヒトは記号ウイルスが蔓延する媒体である、とは、奇妙な喩えに思えるかもしれないが、言い得て妙である。

シンボルは、気が向いた時に趣味程度に嗜むといったものではなく、人間が目覚めている間、いや、眠っている間も含めて、自覚できる意識の流れ「そのもの」であり、そのスイッチを切ったり入れたり、自由にできるものではない。

シンボルは個々のヒトの外部からやってきたものであり、個々のヒトの脳は、その外来のシンボルに託して、シンボル同士の関係を、自分の身体が経験する特定の状況や事物に重ね合わせざるをえない

人間がやっていることと、AIを含むコンピュータがやっていること。その違いは、それが行う「リファレンス行動」の性格にある。

コンピュータが行うリファレンス行動はあらかじめコード化された「インデクシカル」なプロセスである。

一方、人間が行うリファレンス行動は、いくつものインデックスの体系同士の関係を結びつけたり切り離したり、自在に組み替えながら進む。そこにはもちろんコードが設立されるが、それはあくまでも仮設的、仮のものであって、完成され、外部を持たないものではない。ここにインデクシカルな関係を複数結びつけ、その結びつけ方を自在に組み替える「シンボリック」な意味の世界が始まる。

電車の向いの席に座る男がこちらを凝視してくる?

とはいえ、人間にもインデクシカルなリファレンス行動が可能であり、日常生活の何気ないパターン化した動きの中では、むしろインデクシカルな解釈で眼の前の他者の存在や動きを片付けていることがほとんどである。つまり世界にはコードが存在するかのように振る舞うことができる。

しかし、日常のパターンが急にストップする時、シンボリックな解釈が走り出す

例えば、電車に揺られていると、目の前に座る男がじーっとコチラを見てきたとしよう

私は、彼のその行動の意味をインデクシカルにパターン処理することが一瞬できなくなる。

とりあえず目を合わせないようにして、この他者は、心の中で一体なにを考えているのだろう? と考える。

状況を理解する鍵になりそうなインデクシカルな情報はたくさんある。ここが電車内であること、他のひとたちは皆いつもどおりスマホをいじっているだけであること、目の前の男は風体こそ普通の勤め人風であること、私がここに座っていること、そして彼がこちらを凝視しているという事実。

私は、そうしたインデクシカルな情報を意識しつつ、この状況に関する情報を「彼」はどのように解釈しているのだろう、と推測する。他者の視点を仮想的に私の中に構成して、彼が何を考えているのかを推測しようとする

ここにシンボリックな解釈が展開する。この同じ状況を、私は私で、ある記号に置き換えて解釈するし、彼は彼で、なんらかの記号に置き換えて解釈している(はず)と解釈する。そして彼がどういう解釈をしているかをシミュレーション、推測しては、警戒する。

特定の状況を、それとインデクシカルに結ばれた表象によって解釈するならば、私と彼の解釈の間の差はない。ここは電車内ですよ、ヒトがいっぱいいますよ、こちらを見ているヒトがいますよ、それだけである。インデクシカルな記号はそれが指し示す状況そのものに密着しており、それは私や彼が勝手気ままにどこからか持ってくるものではない。

それに対してシンボルは、特定の状況やそこにある事物と直接結ばれてはいないシンボルは他のシンボルと結ばれている

シンボル同士は(1)異なる、と(2)異なるが同じ、という二階建ての基本的な動きによって互いに互いを指さし合う関係に入る

私は自分の頭の中で、いろいろなシンボルの組み合わせが動くのを意識する。そしてこちらを凝視してくる眼の前の男の頭の中で、どういうシンボルが動いているかを推測しようとする。

と、不意に思い出す。私の席の後ろの壁、ちょうど私の頭の上あたりに、何かの広告が貼ってあったはずだ、と。

もう一度さり気なく、彼の視線の先が正確にどこを向いているかチラリと見返してみる。彼は驚いたように目をそらす。そう、おそらく彼は広告を見ていただけだった!…のかもしれない。

と私は解釈し、「眼の前に乗客がひとり座っている」という日常のインデクシカルなパターンに回帰する。

「何か隠された深い意味がありそうだ」ーなにからなにまで深い意味を隠しつつ示すシンボルに見える

そうして目的地の駅で降りると、今度はカラスが鳴きながら飛んでいく。

これはインデクシカルに解釈すれば、あのカラスという黒い鳥が、いかにもカラスらしい「カァカァ」という声を出しながら、空を飛んでいった、というだけのことである。

ところがここにシンボリックな解釈が発動すると「これは不吉だ!」となる。急いで改札を抜けると、今度は黒猫が行く先を横切る。踵を返すと今度は、靴紐が切れる。これだけで思わず星座占いのアプリをダウンロードしたくなるところである。

インデクシカルに解釈すれば、実際に猫が横切っただけであり、事実として紐が切れただけである。ところがシンボル的解釈を行わざるを得ない衝動に駆られた脳にとっては、あれもこれも「不吉だ!!」となる。そして最後は「星の運びからして今日は運が悪そうだから、家に隠れていよう」となる。

おもしろいのは私たちは、意識的理性的に、これは不吉だという意味にしましょう、と決めているのではない。できればそんなふうに考えたくはないと思いながらも、そう考えざるを得ないよう突き動かされる。これがシンボルに憑依されるということである。

ディーコンは書いている。「われわれは物的世界と、仮想世界に同時に住む」と。

新しい意味へ

ところでこの仮想世界。シンボルの体系のおもしろい所は、シンボル同士の組み合わせパターンがいくらでも新しく発生するということである。

シンボルにおいてはシンボル同士の組み合わせ方次第で、権利の上ではいくらでも、新しい置き換えのパターン、つまり意味が生まれる余地がある。

もちろん、シンボルは、個々人の経験においてはインデクシカルな階層と、アイコニックな階層に支えられてしまっているので、その物的世界のリアルさに引きずられ、そうそう自由に展開できないこともある。

それでもなお、いくつもの他の組み合わせのパターンに開かれていること。人間は予め設定されていないシンボル同士の置き換え方をひらめき、試すことができる。それが「今のところは」、人間とコンピュータの記号過程の一番の違いである。


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