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言語にはじめて憑依される瞬間ー読書メモ テレンス・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』(2)

 一週間ほど、子どもが扁桃炎で入院した。

 いまはすっかり快復して、大きな声で遊んでいる。

 しばらく続いた高熱と、はじめての入院。まだ11ヶ月の小さな子にとっては自分自身の内界と外部の環境の両方が同時にぐらぐら変容するという、人生上稀に見る経験だったことだろう。

 そのせいか入院中に、急に言葉が出るようになった。

 「ママ」くらいであれば、しばらく前から思いついた時に時々声に出していた。それが入院中に「発話の使い方をひらめいた」という様子である。

 繰り広げられた光景は以下のようなものである。

 病室にパパもしくはおばあちゃんが入ってくる。そうすると、嬉しそうに天井の蛍光灯の照明を指さしながら、「デンキ!」と言う。
 しかし看護師さんにはこれを言わない。

 不意に部屋に入ってくる人の姿を見てはそれが誰であるかを判別し、相手に応じて特定の対象物を指さして、そして決めたパターンで発声する

 外界からの感覚器官に与えられる情報と、脳内で生じる情報を組み合わせる。そして誰かに対して、何かのことを、記号に置き換えて、そして伝えようと発声する

 これはカンタンなことのようで、ヒトの進化という点でも、もちろんひとりの子どもの存在という点でも、驚異である。

言語と脳は共進化したもので、どちらが先かというものではない

 この子の嬉しそうに発話する様子をみて、テレンス・ディーコン『ヒトはいかにして人となったか』の一節を思い出した。

 ディーコンは「ヒトの脳の進化」について次のように書く。

これ(注:ヒトの脳の進化)が只事でないのは、この血と肉のコンピュータが人の心という驚くべき現象をつくりだしたことではなく、ヒトが言語を使用したことからこの奇跡的な器官ができたということである。P.373

 脳が先か、言語が先か

 このなんとも人間的、あまりに人間的な「問いの立て方」に対して、ディーコンは言語と脳は「共進化」した、と答える。言語を使い、使い続けたからこそ、脳が今日のような姿へと進化した、と。

 共進化。つまり言語が今我々が言語だと思っているような言語へと進化したのはある一定の癖をもった脳たちが次から次へと生まれたからであるし、同時にヒトの脳が恐ろしいほど平然と言葉を操れるように進化したのは言語があったからである。互いが相手の進化の環境となる。

 言語と脳を別々のものとして分けて、どちらがどちらの原因なのか、と問いたくなるのは、それこそ言ってしまえば言語&脳の動き方の「癖」のようなものである。区別して、順番に並べないと気がすまないという

 しかし、言語と脳を区別して、順番を考えなければいけないということはない。言語と脳はふたつで一つ、共に進化して今の姿になった、と。

言語と脳の共進化を起動したものは

 この言語と脳の共進化が動き出したのは、ヒトという動物種という特殊な身体においてであった。他の動物は人間のような言語は用いない。
 言語と脳の共進化が、ほかではないヒトというひとつのサルの類の動物種において動き出すきっかけ、動き出さざるを得なかったきっかけとはなにか、という問題には興味が尽きないところである。

 この疑問へのディーコンの答えは、言語と脳の共進化には、あるシンボル=「記号レファレンス」の使用が先行したというものである。

ある遠い祖先が最初に記号レファレンスを使用したことが、その後の自然淘汰の過程でホミニドの脳の進化を変えたということである。[…]われわれをヒトたらしめた脳とはなにかといえば、非常にリアルな意味で、それは言語の化身である。p.374

 言語の「前」に記号=シンボルがあった。

イコン、インデックス、シンボル

 シンボル=記号レファレンス、というのはなんだろうか。

 ディーコンはパースの記号論に基づいて、三つの記号過程を区別する。すなわちイコン、インデックス、シンボルである。この三つの記号過程の「違い」こそが、人間の言語が動物のコミュニケーションと違いを説明する。

 ディーコンにおけるパースの記号論解釈についてはこちらのnoteに書いているが、ポイントだけ煎じ詰めると次のような具合である。

イコン
 イコンとはある対象とそれを示すサインを、「似ている」と解釈することで結びつけることである。りんごの模型やりんごの絵を「りんごだ」と解釈するといったことである。これは動物でもできる。

インデックス
 あるイコン(アイコニックな解釈)と別のイコン(アイコニックな解釈)を「同じ」であるとアイコニックに解釈することが、インデックスである。
 例えば大きな熊の足跡を見つけてゾッとする。足跡のイメージが、記憶の中の熊のイメージと「同じ」であると気づかれる。これは動物でもありえることである。

シンボル(記号)
 シンボル(記号)は複数のインデックス同士を互いにインデックスとして解釈あるいは混同する、その解釈=混同する処理のパターンである。
 ディーコンは次のように書く。

記号は世界の事物を直接に指すのではなく、間接に他の記号を指すことによって指すわけであるから、その実体は組み合わせであり、そのフェラレンス・パワーは他の記号との体制の中で一つの決まった位置を採ることに依る。」p.102

 イコンやインデックスは、人間以外の動物もそれなりに高度に用いることができる。多くの動物の脳にとって難しいのはシンボル(記号)である。記号は他の記号と区別されつつ、同じと解釈されたり、対立すると解釈されたりすることで互いに関係を結んでいる

 記号の組み合わせをつくることは、頭の中のイコン的な記号過程同士をインデックスとして組み合わせ、今度はそのインデックス同士を記号として組み合わせるということである。

 外界からの刺激をイコン的に解釈したり、そうしたイコンのいくつかをインデックス的に解釈するだけではなく(それは動物でもできる)、記号を他の記号と関係するものとして解釈すること。

 異なりつつも同じだったり、対立したりする、記号と記号の関係をあるパターンで反復すること。この反復は孤独なひとりの脳内で行われることではなく、複数の他者たちの間で、みんなで寄ってたかって同じように発声を反復し、共振させることで再生産されていく。

記号は他の記号との関係を表明する

 ヒトの祖先は、言語に先立って、まずシンボル(記号)を使わざるを得なかった、というのがディーコンの説である。

 ではヒトは、なぜわざわざシンボルを使わざるを得ない環境に追い込まれたのか?

 それに対するディーコンの説は、一夫一婦制の夫婦という関係を群れの中で再生産し続けるため、関係を互いに、また他のメンバーに示し続けるために記号の体系が必要であった、というものである。
 群れの中のある個体とある個体に対して、一方を他方の「夫」あるいは「妻」であるとの記号を与えること。
 夫と妻という記号は、そう呼ばれる個体の無数の差異を超えて、純粋に記号同士の関係で、このヒトはあのヒトの妻(または夫)、という意味をつくることが出来る。

 夫とは、ある妻に対する夫であり、妻とはまたある夫に対する妻である。こちらが夫でこちらが妻である、と仲間皆が呼ぶことで、その二人は夫婦になる。

 この記号で関係を示すことで一夫一婦制を群れの中に保つことが遺伝子を次世代に伝える上で有利であった(のではないか)ということ。それが言語の進化のきっかけになった、というのがディーコンの説である。
 ここでディーコンは、レヴィ=ストロースが親族関係の「構造」として描き出そうとした人類にとっての基本的な意味の世界とは、まさにこれであるとサラリと書いているが、ここは面白いので別に詳しく紹介したい。

同じ一つのものの意味が、人によって異なる

 さて、入院していた我が家の子。

 蛍光灯を見て機械的に「デンキ」と発声するだけであれば、これはインデックスである。

 しかし、聞き手が誰であるかを判別して、「デンキ」を言ったり言わなかったりする。

 煌々と輝く蛍光灯は、ある人にとっては「デンキ」であるし、またある人にとっては「デンキでない」

 同じ一つの物が、デンキだったり、デンキでなかったりする

 つまり、ここでデンキという発声は、天井にぶら下がっている設備としての「蛍光灯そのもの」とは無関係な、シンボリックな記号になっているのである。

 「デンキ!」言いながら、とてもうれしそうに「パパはこれをデンキと呼ぶのでしょう?」と確かめたいという様子である。私が「そう、これは電気」と答えるまで、何度も繰り返し、指を指しつつこちらの顔を見て「デンキ」と言う。

意外にも、とてもうれしそう

 記号の体系、つまり意味の体系を他者と共有させる「言語」というシステム。
 その存在が自分に憑依し、自分を、他者との関係にあるひとりの「自分」へと作り変え始めようとする。

 その瞬間はこんなにも楽しそうな時間だったのだ

 散々コトバをこね回していながら、私は自分自身がコトバに最初に憑依された瞬間のことなど、まったく覚えていない

 長じるに連れて、たびたび言葉の存在の重さに押しつぶされそうになったり、コトバに憑依されて未来をすべて吸い取られてしまったり。

 どうにコトバにはそういう一種おどろおどろしい疎遠な他者という感じがしたり、時に「私」を食ってしまい、奪ってしまおうとする者のようにさえ感じてきた。

 が、どうやら、これもまたひとつのシンボリックな意味解釈でしかなかったようだ。

 コトバに憑依される最初の瞬間は、こんなにも楽しそうな時間だったのだ。

 その楽しそうな様子は、おそらく、この子にとっての言語がまだ、イコンでありインデックスであるところから、完全にその根を切られていないから、なのかもしれない

 彼はできあいのシンボル体系に押しつぶされているわけではなく、たったひとりでかつ親密な他者とともに、親しい環境に浸かりながら、言葉を世界と身体の境目を切り開こうとしているのである。そのブリコラージュの愉しみというものが確かにあるのだ。

 

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