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「として」の自由と「喩の能力」ー読書メモ:中沢新一『虎山に入る』

 前のnoteでAIを含むコンピュータと、人間の「違い」について考えてみた。

 コンピュータは純粋にその内部にある符号と符号の関係を何らかのルール(自動的に変化するルールを含む)に基づいて作り出す。コンピュータはルール内に定義されていないモノ=ルール外のなにごとかには全く関わらない。
 もちろんコンピュータは様々なセンサーや入力デバイスを通じて外界の情報を内部に取り込んでいる。しかし、コンピュータが取り込む外界の情報は、あくまでも外界の環境の変化に応じて変化するセンサーデバイスからの出力信号を、デジタルデータに変換したものである。そしてこのデジタルデータは、コンピュータ内部のルールが計算処理にかけることができる形式に予め整形されていなければならない。つまりセンサーが捉える「外部」とは、予め内部のものと同じ類に変換済みのもの、いわば「外部に関する、内部にある表象」であり、要するに内部のものであり、外部そのものではない。

 それに対して人間は、よくわからない謎の外部の初体験を、内部のルールに置き換えて、解釈することができる。解釈、つまり外部を「そのまま」取り込むということではなく、また外部とダイレクトに直結するということでもなく、いわば外部に、いくつもの別の内部のルール、自分たち人間と同じ「たぐい」の別の内部のルールたちがうごめいている「はずだということにして」外部を内部に置き換えることができる。

 そうしていくつもの並行関係にあるルールの間に、通路を開き、異なるルール体系に属する(と考えられる)複数の符号同士をつなぎ合わせ、その符号が元々属していた符号間関係の体系=ルール同士をもつなぎ合わせ関係づける。

 そして複数の体系を横断して、体系Aの符号aと体系Bの符号bを、「同じ」もの、置き換え可能なものとして置くことが出来る。この置き換えの可能性は権利の上では一切限定されておらず、あらゆる「同じ」にする操作を試すことができる。

同じ見つける

 いたるところで垣根を超えて「同じ」を見つけていく人間のやり方
 人間と動物の垣根を超えて、同じを見出し、人間の運命と天体の運動のあいだの垣根を超えて同じを見出し。こうした「同じ」を見つけ出す能力こそ、私たちホモ・サピエンスに象徴を、言語を生み出すことを可能にする力である。
 その能力の働き方、その駆動が示す動きの構造を描き出そうとしてきたのが中沢新一氏である。

 その中沢氏の最近の著書、『虎山に入る』を読んだ。

 この本では、われわれ現生人類の思考の基本構造を、「喩」をつくりだす処理によって作動し、形作られるものと考える。
 喩を創り出す、というのは、何かを何かに「例える」こと、何かと何かを、違うものだと知りつつ、けれども同じものとして扱おうとする、ということである。

 重要なのは、同じとして扱う、という処理の前にある、違うと知りつつ、というところである。

 まったく同じに見える、違いに気づかない。

 ということでは喩にはならないのである。

 もともと同じものを、同じだ、というのではない。

 違いに気づくことができるあれとこれ、ふたつのものを「同じ」として扱う能力を「喩の能力」と呼ぶ。

 同じではない、違う。これとこれは違うんだけれども同じということにしておこう、という関係づけを行うこと。違いを調停することが、喩の鍵である。

 中沢氏は軽快に、ネアンデルタール人の「古いタイプの言語」と、私たちホモ・サピエンスの「言語」を区別する。古いタイプの言語は「喩」を使わず、私たちホモ・サピエンスの言語だけが「喩」を使う。

 古いタイプの言語は、現実の世界で生じていることと対応関係にある単語の並び(”S+V+O”の基本構造)をつくる。現実に対応する名前を言葉の体系の中にもつ。

 と、これは私たちの言葉そのものではないのか?

 たしかに、私たちもまた祖先から受け継いだのであろう"S+V+O”の基本構造を使っている。ところが、これに対してホモ・サピエンスの言語はちょっとしたプラスアルファをもっている。

 それはいくつものS1,S2,S3,S4,…,Snを「同じもの」と認める能力である。

 この能力のおかげで「双子は鳥である」とか「人生は旅である」といった言い方ができるようになる。

 人生と旅が同じ。双子と鳥は同じ。これは説明されないとなんのことだかよくわからないこともあるが、しかし、いかにも「深い」ことを言っていそうだということはわかる。

 私たちホモ・サピエンスは異なる国で異なる言語を喋っていても、本をたくさん読んでいてもいなくても、この「深いなぁ」がわかる。これは驚くべきことである。

喩の能力 4つのレベル

 違うけれども、同じ。
 同じ、というか違うまま一つになって「響き合っている」、という具合に認識する能力が喩の能力である。

 この喩の能力はいくつものレベルを重ねて展開していく、と中沢氏は説く。

 喩の第一のレベルは、隠喩と換喩である。
 隠喩とは「似ているものを似ていると認める能力」である。
 換喩とは「そばにあるものを同じとみなすこと」である。例えば「帆」で「ヨット」を表現するといったやり方がそれである。

 喩の第二のレベルは「換喩に接続した「人間の性生理」」である。
 それは換喩の力で、あらゆるものに性生理的な意味付けをすることである。男女の関係、つまり異なりながらも一つになり、一つになりながらも違う、という関係に喩えて、様々な物事の関係を理解する。

 喩の第三のレベルは、第二の性生理的な意味付けを、動物の世界と人間の世界の間の関係にも拡張して適用する。

 そして第四のレベルでは「宇宙エネルギー」つまり銀河や星座や星のような運行や太陽の位置までをも、第三レベルまでの関係と「同じ」もの、リンクしたものとみなす。星の運行が人間の運命とリンクしているという思考である。(p.220) 

どうして違うのに同じになるのか?

 それにしても不可解なのか、どうして一度「違う」と気づいてしまったものを、改めて「同じということにしておこう」などと、頭の中で偽装工作のようなことが出来てしまうのか??という点である。

 これを理解する鍵はパースの記号論にありそうだ。

 パースの記号論で言えば、古いタイプの言語は「イコン」から「インデックス」までできている。それに対して喩の能力も使えるホモ・サピエンスの言語はその先の「シンボル」を含む。

 イコンとインデックスは、それこそ形が同じとか、いつもセットで出現するとか、分離し難い組み合わせである。あのカラスもこのカラスもカラスだし、夕暮れ空にカーカーと鳴くあの声は、いつもあの黒い鳥のシルエットと一緒に出現する。

 自然環境はそういう分離し難い「いつも同じ」というパターンで満ち溢れており、そのパターンを私たちの生命システムに注ぎ込んでくる。そうして私たちの生命システムには「本能」と呼ばれるような具合のパターン認識の仕組みが出来上がり、伝承されていく。それはイコン的に、インデックス的に、個々人が好むと好まざるとにかかわらず勝手に動き出す。

 ところが、ここに問題のシンボル登場である。

 シンボルは、世界に溢れる様々な事物とは関わりなくシンボル同士の関係だけで成り立つ。つまり世界の事物が予め織りなしているパターンとは無関係に、シンボルのパターンをバーチャルに作り出すことができる

 現実はどうあれ、それを何かのシンボル「として」扱うこと、そしてシンボル同士の関係に引き込んでしまうこと、ができる。

シンボルの関係としての親族構造

 例えば、ある一匹のメスの前に、あのオスとこのオス、二匹のオスが居るとする。一方は歳をとっており小さな声で喋り、他方は若く大きな声で喋る、としよう。メスはその感覚器官を集中して動員するまでもなく、この二人は個体としてはまったく別々の存在であると「分かる」。

 ちなみに、観察者の立場からヒントを出しておくと、この最初の年老いた方の一匹はメスの父親である。そして二匹目の方はメスの夫である。

 この二匹。オスかメスかの区別で言えば、どちらも「同じ」オスである。

 また、年老いた方はメス当人の母親との関係でいえば「夫」であり若い方はメス自身との関係において「夫」である。
 二匹のオスは、夫婦という二項関係においてはどちらも「同じ」夫
である。

 シンボルの世界で「同じ」を扱うというのは、こういう具合のことである。

 これはレヴィ=ストロースが親族構造の分析と神話の構造分析を通じて、一貫して言語による記述へともたらそうと苦心したことである。

 現代においても私たちを悩ませる「男なんだから/女なんだから」「夫なんだから/妻なんだから」といった言い回し

 ひとりの全く個別の個人にとって、それは「男」「女」「夫」「妻」などなど、一般的な何かに「同一化」することを命じられているような、居心地の悪いものと感じられる。

 じっさい、これはホントウに、言葉の上で象徴体系の中で、私たちの個的存在を「何か」と「同じにする」処置なのである。

 オスとメス、男と女、夫と妻。その他あらゆる対立関係があり、しかも対立関係同士が重なり合って、第一の関係の第一項と、第二の関係の第一項を「同じ」にする。つまり↓のようになっている。

 オス ー メス |   | 夫 ー 妻

 「男なんだから」という「男」への同一化要求は、同時に「女」との分離要求でもあり、他の対立関係において「男」と置き換えられるシンボルへの同一化もまた同時に要求する。
 どれかのシンボルと同じにされることは、そのシンボルと対立する何かから切り離されるということ
。そして区別と等置の網の目に一気に絡め取られることである

喩の能力の真骨頂 ーシンボルの置き換えを増殖させる

 ところで、シンボルにあって、イコンやインデックスにはない、真に恐るべき力というのは、シンボル体系を、やわらかく、グニャグニャと捻じ曲げてしまうことができることである

 シンボルは所詮、バーチャルである。イコンやインデックスのように環境世界のパターンに成約され、条件づけられない。

 シンボルの世界では、どのシンボルをどのシンボルと「同じ」とみなしても構わないのである。ただし、シンボルは単独孤独に存在するわけではなく、ミクロにはひとつの対立関係の中に、マクロに見ればとても重たい網の目の結び目である。シンボルとシンボルの置き換え関係を作り直そうとすると、この結び目を一度解いて、また結び直すような、繊細なテクニックが必要になる

 どうにでもできるが、非常に難しい、とでも言おうか。どれか一つのシンボルを無造作に網から切り離して、どこかに適当に結び直しても、対立関係の網目の全体はほとんど動じること無く、その切れた部分に別の「同じようなもの」を充填するだけである。対立関係の網の目全体を編み直すような、そういうシンボル体系の更新は容易ではない。しかしとはいえ、人類史上、そういうシンボル体系の大転換は、何度も起こっているし、同時に、たとえどう編み直したとしても、シンボルの網の目があることには変わりはない。

 それこそ「男なんだから」「女なんだから」といった、嫌悪感を引き起こす同一化要求があったとき、いったいそのシンボルたちはどういうシンボル同士の対立関係の網目をなしているのか。これを知ることこそが思考の自由への第一歩なのかもしれない。

コンピュータの演算処理と人間の思考方法が違うところ

 さて、中沢氏はこんなことも書いている。

 コンピュータの演算と、人間の思考との違いについてである。

コンピュータは、無限アルゴリズムを作り出すことはできても、喩の構造をもっていません。喩的思考をまねることはできますが、自ら喩的思考を行えない。統計的処理で似たものはつくりますが、それは人類の心/脳の行っている喩とは異なります。pp.229-230

 今のコンピュータは「自ら」は喩的思考ができない、というのである。

 たった一文字、コードを外れただけで、コンピュータのプログラムは止まってしまう。エラーである。 

 これが仮に、喩的思考ができるメカニズムであれば、ずれた一文字は、それはそれとして、なんだかよくわからないが、とりあえずどれかのシンボル「として」勝手に解釈・転用し、シンボル体系の網の目のどこかの結び目と「同じ」ことにして、先にすすめてしまう。

 そのとき、このメカニズムは一体なにをやろうとしているのか?

 そんな原因と結果、という対立シンボルにへの引きずり込みなど無視して、ただ網の目を結び続けていく。

 この動きをシミュレーションすることは、次世代の人工知能の起爆剤になるころだろう。

おわり

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