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「線」としての言葉。声の線、手書き文字の線、印刷文字の線 ―ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』読書メモ(2)

ティム・インゴルド氏による『ラインズ 線の文化史』の読書メモ、先日のnoteの続きである。

ラインズとはのことである。
ご存知、ペンを紙の上に走らせた時にできる、あの線である。

線には二種類があると、ティム・インゴルド氏は書く。「軌跡」と「連結器」である。これについてはこちらのnoteにも書いたが、改めて整理すると、次のような具合である。

まず「軌跡」とは「踏み跡を追跡する徒歩旅行」の途上で刻まれる線である。一方、「連結器」は、「地図を与えられた航海」が辿る線である。

軌跡というのは、徒歩での旅行のように、人が、生命が、その身体が動いたところに残される痕跡の連なりである。

けもの道も、雑木林の中の散策の道も、峠の古道もいくつもの身体が繰り返し繰り返し動いたことの痕跡としての「線」である。この痕跡は身体の気づきや迷いとともに、うねり、分かれ、交差し、そしてしばしばふいに途切れたりもするし、一度途切れた道の続きが、別の誰かによってさらなる先へとふみわけられることもある。軌跡はどこまでいっても「途中」である。どこかに到達するとしても、その到達点は最終的なゴールではなく、その先への未知の可能性へと広がる「途中」である。

これに対して連結器というのは、スタート地点とゴール地点を最短最速で直結する透明なチューブのようなものである。

連結器としての線は、透明な、抽象的な直線である。線が終わる点は予め決まっており、終点に至るまでの途中は限りなく透明に、抵抗ゼロに、高速の移動を妨げることのない媒質になるよう求められる。この連結器としての線には、「軌跡」の本質であった「途中」ということが認められない。

踏み跡を追跡する徒歩旅行、それは進みながら行程を組み直す未確定の歩み、永遠の「途上」である。それに対して「地図を与えられた航海」は、「すでに組み立てられ自己完結したプロット」である。そこには行程からあえて逸脱する「あそび」はない。

線の文化史―線の歴史、軌跡から連結器へ

さて『線の文化史』は「文化史」とあるように、線の歴史を描く

大きく捉えると、5万年前か7万年前か、人類が今日の私たちと同じようなものになったころ、祖先たちは狩猟採集民だった。祖先たちは日々歩き、あるいは走り、あるいは船に乗って、移動しながら生きていた。移動しながら、食べるものを捕まえ、手に入れ、そしてなにより自分の周囲の世界を観察し知識を獲得し、そして「声」でものがたり、仲間と共感しながら歩いていた。

こういう時代が数万年続いた後、いまから1万二千年前くらいに農耕牧畜・定住生活を始める人々が現れ、その勢力を増やしていった。そこから国家が生まれ、手書き文字が書かれ始め、広大な帝国が生まれ、一神教の宗教組織が成立し、という具合に私たちがよく知る歴史の世界に入っていくわけである。

この間、人類の文化における線はほぼ「軌跡」であった。そこには透明な連結器としての線はまだほとんど姿を現してない。

古代帝国の文書や兵士を速達するための真っ直ぐな「道」は、連結器の理念を宿しているといえるかもしれないが、その連結器としての道が覆うのは、地表のごくごく狭い領域にとどまっていた。ほとんどの人々は自分の身体が移動できる限りで、祖先たちが歩いた軌跡としての道をたどりながら暮らしていた。

近代の線と活版印刷

そして今から500年ほど前、この連結器に対する軌跡の優位がひっくり返る大事件が起こった。それは「活版印刷」、活字から複製された文字の大量生産のはじまりである。

印刷によって、言葉が「釘付け」にされたとインゴルド氏は書く(p.55)。

印刷されたテクストからは、過去の声が消し去られている印刷されたテクストは苦労してそれを生み出した人々の活動の痕跡を残してはおらず予め組み立てられた制作物ないし作品としてあらわれる。(『線の文化史』p.52)

印刷技術は、完成、あるいはゴール、線の終点の瞬間を固定する。その一方で、ゴールに至るまでの「途中」の軌跡を消してしまう

軌跡としての言葉の意味と、連結器としての言葉の意味

ここで問われるのは、言葉ということをどう考えるか?
特に、言葉の意味ということをどう考えるか?
ということである。

印刷技術の登場によって大転回が起きたのは、言葉のあり方、言葉の意味のあり方であり、その言葉によって表現される対象としての「世界」のあり方だった。

私たち、生まれたときから印刷された文字や、電子的に文字を表示するディスプレイパネルに慣れ親しんでいる私たちにとっては想像しにくいが、言葉はもともと、印刷された文字とは関係なく存在していた。

言葉は、数万年にわたり「声」だったのである。
声はもともと音であった。

声に出された音の連なりもまた、ひとつの「線」である

そして意味ということも、言葉の「音」が連なる線として存在した。この印刷文字以前の「声」の「線」は、軌跡と連結器という二種類の線のどちらかといえば、前者の方「軌跡」としての線である。

歩くこと、織ること、観察すること、歌うこと、物語ること、描くこと、書くこと。これらに共通しているのは…すべてが何らかのラインに沿って進行するということ…(『線の文化史』p.17)

「軌跡」としての声は、複数の異なる人間の間で、ときにウロウロ、行きつ戻りつ、様々な軌跡を描く。そういう声の言葉は多義的である。

声の言葉では、たとえ「同じ言葉」であったとしても、だれとだれがどこでどのように喋り聞いているかによって、その意味が変わる。この話し言葉の多義性は、今日の私たちでも、ある程度親しい人たちとの日常の「会話」で経験することである。

声において意味は耳と口の間で、つどつど新たな「軌跡」として試みに引かれる多様な事柄であった。その意味は多様な生成の相にある。この「意味」は、近代現代のように「言葉そのもの」という小包のようなものの中に封印され、透明な媒体の中を移動する完成品とは考えられなかった。

手書き文字も、「軌跡」のひとつ

印刷文字以前には「手書き」の文字の時代があった。

手書きの文字は、線としては、軌跡なのか、それとも透明な連結器なのだろうか?

インゴルド氏は、手書きの文字もまた「声」と同じく「軌跡」であって、「連結器」ではないと考える。

(手書き文字を)読むことは…黙って孤独に書かれた言葉を凝視する行為とはまったく違って、「共同体の中の公的な発話的行為」だったのである。それは一種のパフォーマンスであり、声に出して読むということだった。(『線の文化史』p.37)

手書きの本の文字は、聞き手を前にして、読み手が声に出して読み上げるもの、歌い上げるためのものだった。古代、そして中世において「書かれた記号がまず読者を導いていく先は聞き取れる音声であって、音声の背後にある抽象的な言葉の意味ではない」というのである(『ラインズ 線の文化史』p.41)。

そしてインゴルド氏は「聖書」を例に次のように書く。

中世の書物の規範は聖書だった。読者は聖書の記述が語る声を聞き、そこから学ぶ…。 …記述における預言者の口から書記官が記すインクの軌跡への連結、そして読解におけるインクの軌跡から人々の耳への連結は、直接的で何にも媒介されていない。p.36

手書きの聖書に刻まれた文字は、過去の、今ここで目の前には存在しない「預言者の口」が動いて発した声を、いまここで、再度読み手=演者の「声」として再現する儀礼のための装置だったというのである。

中世において読み書きのできる人は…見るための目ではなく、聞くための耳を用いて、話された言葉の経験をモデルに書かれた言葉を知覚していた

インゴルド氏はこのように書いている。

聖書に限らずとも、手書き文字を声に出して「読む」あるいは歌い上げることは、かつてありありと響いた神の声、祖先の声を、いまここでまたありありと声に出すことである。

それは神を、リアルな声として、いまここに出現させる儀礼である

なにより手書きの本には、その本に文字を刻み込んだ人の身体の動きが、痕跡として残されている。

文字を刻んだ過去の人が、文字を刻みながら発したであろう声や息遣いまでもが、刻まれた文字の隅々から立ち上る。そうした手書きの文字を声に出して読み上げている時、読み手の声は過去の書き手の声と一体化したような感覚に捉えられる。

声でも、手書き文字でも、言葉はつねに「軌跡」をたどり直すことであり、そこから時に逸脱したり、また過去の踏み跡に戻ったりとする、つどつどの試行錯誤の歩みの「途上」にあり、その歩みの軌跡としての線だったのである。この線は本質的に未完成である。

テクストなり物語なりルートなりが、記述や発話や移動といった身体の行使に先立って、…全体を復元すべき複雑な構成物としてあらかじめ存在しているなどと考えるべきではない。p.41

活版印刷は文字から音を取り除き、言葉を「連結器」の連なりにした

こうした手書き文字の伝統に対して、活版印刷の登場は大きな一撃を加えた。活版印刷の技術により「言語から音が取り去られ」たとインゴルド氏は書く。

これはどういうことだろうか。

印刷された文字であっても、手書き文字の時と同じように声に出して、感情を込めて読みあげることもできるはずである。しかし印刷された文字は声を沈黙させた。それはどうしてか?

そもそも印刷とはどういうことか?

インゴルド氏は次のように書く。

印刷とは、押印ー予め組み立てられたテクストを、それを受容する準備ができている空虚な表面へと押印するーの過程だから。…手を用いる過程にいかなる身体動作が含まれていようとも、それらは結果として生産される文字記号の形姿とはまったく関係ない。p.55

文字を手書きすることと、印刷すること。文字を記すという点ではどちらも同じである。しかし両者は「線」として見ると大きな違いがある。

手書き文字は、抵抗のある物質の表面に細かな線を刻み込む身体の動き、その動きの痕跡がいくつも重なり合ったところに、微細な身体の動きの多数の軌跡の集合として浮かび上がる。

手書き文字の線は、物質の表面を「一歩一歩」動き回った身振りの軌跡である。時に硬質でざらついた表面に誰かがその手で刻んだ線は、書き手の息遣い、その文字を刻む際に口にしていたであろう声を、読み手にありありと思い起こさせる。読み手は手書きの書物を読み上げる自分自身の声を過去の書き手の声と同じものとして聞く。

それに対して、印刷された文字は、予め出来上がっているパーツを並べたものである。

印刷されたテクストからは、過去の声が消し去られている。印刷されたテクストは苦労してそれを生み出した人々の活動の痕跡を残してはおらず、予め組み立てられた制作物ないし作品としてあらわれる。p.52

印刷された文字からは、まず「書き手」の気配、息遣い、声の残響が消えているという。印刷された文字を読み上げようと思っても、活字から複製されたインクの染みに、書き手の息遣いや声の気配を感じることは難しい。印刷された文字を手がかりに書き手の声を再生しようとしても、手がかりが無くなってしまったわけである。こうして活字から大量複製された言葉は「沈黙」した。

まっしろな表面

さらに印刷は文字そのものだけでなく、文字が刻まれる「表面」のあり方も変えてしまった。

文字が印刷される表面は「そこを通って進む領域」つまり徒歩旅行の踏み跡が無数に刻まれるフィールドではなく、文字そのものを読み手の意識へと「連結」するための透明な媒体、「スクリーンのようなもの」になった

手書き文字であればそれが刻み込まれた表面もまた、書き手の身体の動きに抵抗する「重さ」をありありと残していた。そこに読み手は、書き手と表面との対峙の軌跡を感じることができた。手書きの文字が残されたモノには、それを刻んだ人の息遣い、気配、存在を、ありありと感じないわけに行かない。

それに対して、印刷技術は、活字の複製が並べられる表面を、身体の動きの「軌跡」が動き回る場所ではなく、真っ白な、なにもないフィールドにした。

こうした真っ白な表面に並ぶ活字の複製としての線のあり方を、インゴルド氏は「点線」と呼ぶ。

運動と成長のラインから、その正反対のものである点線へ。…それ(点線)は何も動かず何も成長しない瞬間の連続体である。p.20

ここから「近代」を象徴するイメージのひとつである、精神と物質、人間と自然一直線にむすぶ視線のように、透明な連結器としての「線(点線)」があふれだし、世界を無数に貫くことになる。

広い意味での言葉によるコミュニケーションが、他者たちが残した軌跡を辿ることを止め、予め用意されパーツを透明な表面に並べ、その配列を共有することへと変化した。

これにより言葉による「表現」も、声にして読み上げたり歌ったりすることから、活字を並べる並べ方の多様性や意外性に訴える方向へと変化した。

今日の著述家はもはや写本筆写者ではなく、言葉の細工師であり、組み立てられた言葉を、手作業を省略した機械的過程によって紙上に送り出す者である。タイプを打ち印刷する行為においては、手の動きと刻み込まれる軌跡との密接な関係が断ち切られている。著者はラインの表現力ではなく語の選択によって感情を伝える。(『ラインズ 線の文化史』p.21)

ラインの表現力ではなく、語の選択によって感情を伝える、というインゴルド氏による一節は興味深い。

言葉で表現するということが、声によるパフォーマンス、過去の声を反復するパフォーマンスから、文字の配列パターンを組み合わせることへと、大転換したわけである。

これによって私たちの「言葉の意味」ということについての理解もまた、大きく転回することになる。

つづく


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