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「意味あるの?」という「問いの立て方」

問い方という大問題

 ある問題を「どう問えばよいか」。

 世の中には大昔から今まで、そして未来に至るまで、ずっと同じように「問題」であり続けるという装いをした「問題」たちが溢れている。「あなたはこの問題をどうするの?!」と、その一つ一つその相手をしていては、もう人生そのものが問題なのではないかと思わず問題にしたくなるほどの問題である。

 そんな問題たちも、ひとつひとつよく見ていくと、ところどころ「ほころび」が見えてくる。

 人類史上の大問題とは違うかもしれないが、例えば、私が人生上の大問題だと思っていることがある。「台所のシンクではウガイは絶対にしない」という人生上のルールである。これを破ることは私にとっては大問題である。合理的な理由は特にない。強いて説明するならレヴィ=ストロースが論じた「神話的思考」に依るものである。これについては「なるほどわかる!」と言ってくれる方もいれば、「何が問題なのかがわからない?」という方もいる。

 なお、以前はよく「アパートに洗面台がない」という声もあったが、設備の設計が区別しなくて良いようになっているなら、ウガイをしてもまったく構わないと思う。何が問題かというと、洗面台と台所がわざわざ別れているのに、その区別を曖昧にすることが、居心地悪くて仕方ないのである。逆に、別れていないのなら、そもそも区別がされていないのであり、何も気にならない。

 どうやら問題というのは、必ずしも、予め全人類にとって普遍的に「問題である」わけではなく、個々の「私」の関心によって、問題に「なったり/ならなかったり」する。

 何が問題で、何が問題ではない、という区別は、予め決まっていない。

 そこで「問題」になるのは、自分が問題だと思っていることを、何も問題だとは思っていない相手に理解してもらい、できることなら自分と一緒に「問題だ!」と主張するようになってほしい、という場合。

問題を作る技術

 相手に「想像力」や「他人の立場に立つ」ことを要求することなく(そういう要求は叶わないことも多く、がっかりさせられ、かえって他人への失望につながることも。)、相手が自分から、自分自身の問題だと思ってくれるように、「問題を問題として生産する」技術、そのための材料が必要になる。

 問題を生産することは、「認識」を生産することであり、そして問題を生産するための材料となるもの、それを「加工」するための手段としての「理論」からしてこれを作り、配分すること、このあたりの話についてはルイ・アルチュセールの「プロブレマティーク」の概念が非常におもしろいのであるが、三日三晩眠れなくなるほど長くなるので割愛する。

問題の始まりは、うまくいかないこと 

 教育の現場で時々あるお話。「何か質問は?わからないところはありますか?」などと尋ねても「何がわからないのかがわからない」という答えが返ってくることがある。
 職場でも同じ。「今の業務のやり方は、非常に問題が多いと思いませんか?」などと拳を振り上げたところで、「何が問題だかわからない」という答えが返ってくる。

 こうした答えは、非常に正直で良いと思う。
 問題は、最初から「みんな」がみんな同じやり方で「問題にできる」ものではないのだから。

 物事が、自分が思ったとおりに、予測した通りに、期待したとおりに、ならなかったとき。その「うまくいかなかった」経験から個々人にとっての問題がはじまる。うまく行かなかった理由を、問わざるを得ないのである。

 問題の手前には、個々人ごとにバラバラの関心、期待、希望、願望、予測、そして経験の記憶がある。その「あてが外れた」とき、茫然自失して立ち尽くした後に「やれやれそれでもなんとか自分で解決する以外に道はなさそうだ…」と立ち上がる、そこで初めて、答えを見つけなければならない「問題」を「問題として」作り出そう、その作り方を考えようという衝動が動き出す。

 そうして、その作り方、立て方からして吟味されて造られた問題は、問題として完成した時点で、ほぼ答えも出ている。

答えを導けない問いの立て方ー「それって意味あるの?」

 逆に、問題の作り方、立て方に失敗すると、他の形で問題にすれば解けたはずのことが、永久に迷宮入りすることもある。

 答えを封じてしまうタイプの「まずい」問題の立て方の一例として挙げたいのは「それって意味あるの?」という、しばしばよく聞く「問い」である。

 意味あるの?

 これは実は「問題」を提起するための、問うという行為に及んでいる訳ではなく、はじめから「意味ないです、ごめんなさい」という定型句を発語させるための圧迫的な儀礼的言語行為でもあるのだが、まずはそこはおいておく。大真面目に、意味なるものがあるのかないのか、考えてみる。

 かのレヴィ=ストロースによれば「意味」は「置き換えること」であるという。
 なにか石ころのように「意味というもの」がどこかに転がっているということはなく、人間が、一人ひとり異る個人としての人間が、それぞれの状況で手持ちの言葉やイメージを使って、何かを別の何かに置き換える操作、処理、行為こそが「意味する」ということである、と。
 あるものを、別のものに置き換える。異るふたつのものを「異るが同じ」ものとして扱うこと、これが意味するということである。

意味あります/意味ありません

 この意味の定義に従えば、「それって意味あるの?」という問い方は、まったくである。期待される答えは「意味あります」または「意味ないです」のどちらかであり、おそらくこんな質問をわざわざ投げかけてくる人のことであるから、答えはもう決まっていてほぼ「意味ない」であろう。

 仮に大真面目にこれを問題提起として受け取ると、「それに意味はあるか?」という問い方は、ざっくりいうと「それ」を「意味」に置き換えられるの? と聞いているということになる。

 このAをBに置き換えることができるか/できないか、というパターンの問いの立て方は、いつでもどこでもとてもよく行われている。

 純粋な記号の恣意性という意味では、何を何に置き換えてもよいのであろうが、ことややこしい人類社会のことである。何を何に置き換えてよいか、そのルール、コードは予めガッチリ決まっているということになっている

 実のところ、予め決まっているように見えるコードもまた、ある置き換えパターンばかりをいつも繰り返し、ある置き換えパターンを禁止するという、ミクロな実践の結果として生産、再生産されているのであるけれど。「それを言っちゃあおしまいよ」という話である。

意味の意味

 ただ「それって意味あるの?」問題がコトさらに問題なのは、「それ」を「意味」なるものに置き換えようとしていることである。

 先程書いたように、意味は「置き換えること」その操作そのものであるとすれば、「意味というもの」があるわけではない。置き換える操作が行われる、ということだけがある。
 だとすれば「それって意味あるの?」という問題は、正確に聴取すれば「それって"何かに置き換えられるの?"」と問われているということに置き換えられる。
 そして、その答えはもう決まっている。

もちろん、権利の上では、なんでも何かには置き換えられるでしょうし、また置き換えを禁じることもできるでしょう。それが人類にとっての意味するということです。なお、あなたの質問では、何に置き換えられるか?と具体的に"置き換えの対象”をたずねられてはいないので、これ以上は答えられません

 と。

 これを再び「意味あるの?ないの?」という「意味というもの」を実体化した言葉づかいに翻訳、置き換えると「意味はあるかもしれないし、無いかもしれない」という具合になるだろうか。

 学校でも職場でも、「意味あるの?」と威圧してくる「目上」の人に対して、面と向かって「意味はあるかもしれないし無いかもしれない」などと応答してしまおうものなら、大変なことになるだろう。1970年台後半の生まれである私が学生の時分などは、もしこの質問に、このような答えを発言をしようものなら、後はお察しくださいである。

人を黙らせる問いは「問い」ではない

 「それって意味あるの?」のように、はじめから相手に「ごめんなさい意味ないです」という一定の発話行為を強制する言葉遣いは、問いの姿をしているが、実は問いではない。
 それに大真面目に「答えて」しまうと、組織から爪弾きにされるような用語法のどこが「問い」であると言えるのだろうか。

 とはいえ、世の中、そういう問いを装って、「答え方」として提出できる口の聞き方に応じて人を「分別」しようとする謎掛けがあふれている。

 そういう言葉、というか音声や文字の儀礼的交換を強要してくる共同体、あるいは「部族」の中のひとりひとりが、その部族の儀礼的な言語記号の交換ではすくい取れない、個人的な苦悩や喜びや受け入れ難さや僥倖を、手作りの言葉で問い自分なりにブリコラージュした言葉で仮に答えようとする、という圧倒的に絶望的でありながら生きる喜びそのものであるような営み

 そうした歩みを共にするよう、うながし、いざなうような、問いかける言葉というのもまた、ありうるのではないだろうか?

 その問いかけは、まず「耳を育てる」とでもいえるような、ある言葉の聞き方、ある「意味するということ」を引き起こす場所としての「耳」を生産する、そういう問い方になることだろう。

おわり


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