見出し画像

<短編>過誤と忘却のエングラム

高台にある住宅街を抜けた先にその公園はあった。
入り口には「ひがしこうえん」と書かれた子供の背丈ほどの高さの門柱がある。
自転車から降りたその男は、しばし門柱の青銅で作られた銘板を眺めていたが、やがて意を決したように人気のない公園に入り、ベンチに腰掛けた。
彼の目線の先には青いペンキが剥げかけた滑り台。

夕闇迫るその公園で彼は、幼い頃を思い出していた。
脳裏に浮かぶ映像は、滑り台の頂上にいる半ズボンの幼児。

滑り降りるのが怖くて、頂上で足がすくんだ。
地面が随分遠くに感じられた。
そのまま滑り降りることも、階段を降りることもできず、ただ、頂上の手すりにしがみついていた。
父親の励ます声。登って手助けしたいところを必死に自制している。
何分くらいそこにそうしていただろう。
幼い自分は階段に座りこみ、腰を下ろしたまま一段一段慎重に足から降りて行った。
青い手すりを決して離さぬよう、握り締めながら。
ようやく地上にたどり着いた時、呆れ顔の父の腕の中で泣いた。

全てが鮮明な映像となって、昨日のことのように思い出される。
父親が繰り返し話してくれた、幼児期の気恥ずかしいエピソード。
目の前にある、青い手すりの滑り台。
「ひがしこうえん」での父子の大切な思い出。

-------------------------------------

記憶想起の過程とは、枝分かれする川の流れのようなものだ。

例えば今見ている「滑り台」のイメージから「幼稚園」が、「幼稚園」から園庭にあった「イチョウの木」が、「イチョウの木」から「銀杏」が、「銀杏」から「茶碗蒸し」が、そして昔家族で囲んだ「食卓」が想起されるように、一つのエングラム(記憶痕跡)が他のエングラムを連鎖反応的に活性化して、一つのストーリーを形作っていく。進化の過程で選ばれた実に素晴らしいシステムだが、脆さも持っている。エングラムの活性過程の中で、事実とは異なる繋がりが浮かび上がり、あたかも事実であるかのように想起されることがあるからだ。

つい先ほど、「ひがしこうえん」の門柱の前で、彼は確信した。

あの時、この滑り台の上で足がすくんだ幼児などいなかった。
その子が父親の腕の中で泣いたという事実もなかった。

この公園が作られたのは、彼が小学校にあがった後の事だからだ。
青銅の銘板が、確かにそれを彼に告げていた。

過誤記憶

父親により繰り返し語られたエピソードが、彼の脳内に鮮明、かつ架空のエングラムを生成したのだ。

父親は別の公園と「ひがしこうえん」を誤認したのかもしれないし、賢しらな自分を諭すために、幼児期のちょっとしたエピソードに尾鰭を付けたのかもしれない。

にも関わらず、自分の脳内には「ひがしこうえんの思い出」として、目の前の滑り台、青い手すり、心配げな父親の姿までがリアルな映像にまでなって保存されているのだ。

人の記憶のなんと脆弱で、信用ならないものか。

世の中には自分の個人史を全て鮮明に覚えている異能者がいる。
「ハイパーサイメシア」もしくはHSAMと呼ばれる彼らの脳内では、エングラムの活性化が爆発的に、言わば滝のように進む。

何年何月何日に、自分がどこで誰と何をしていたかを正確に答えられる彼らは、決して幸せというわけではない。その能力を使って、人並外れた成功を収めるわけでもない。雪崩のように襲ってくる過去の記憶の中で、戸惑い、立ち往生してしまうからだ。過剰に活性化される過去の記憶のエングラムの中で閉塞感に苛まれ、うつ病を患うものも多い。

生真面目に過去を覚えていること、その中に囚われてしまうことは、現実で今直面している問題に集中し、対処することを困難にする。

「忘却の効用」は計り知れない。過去の記憶が曖昧かつ柔軟であるが故に、時にエングラム同士は思いも寄らないところで結びつく。それこそが今までになかった大胆な発想や、未知に対応する能力を生み出す源泉となるのだ。人の脳に付与された無視できない特性。欠点のように見える最大の利点。AIとの違いだ。

---------------------------------------

(‥祝福すべきことだね。)
つい先ほど親子の思い出を失ったはずの彼は、微笑みを浮かべた。

街灯がつく。

「ヘークショイ!」

黄昏。もう風は冷たい。

「ひがしこうえん」と「黄昏」、さらに「くしゃみ」のエングラムを新たにその柔軟な灰白質に保存した彼: ウチムラ・リンタロウはポケットに手を入れてゆっくりと立ち上がり、そのまま公園を歩み去った。

門柱のところに止めたはずの「自転車」のエングラムは、くしゃみの拍子にどこかに行ってしまったようだ。

(了)

この記事が参加している募集

読んでいただけるだけで、丸儲けです。