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韓国のジャニーズ事務所「DSPメディア」

DSPメディアは1991年に「テソン企画」として設立され、SMエンターテインメント・YGエンターテインメント・JYPエンターテインメントよりも先にアイドルグループを売り出して成功を収めた芸能事務所であり、創設者であるイ・ホヨン社長が自分の住んでいた家を改装し、事務所を設立したのが始まりである。

DSPメディア本社

★練習生・トレーニングシステム
DSPメディアは日本のジャニーズ事務所に影響を受けた芸能事務所であるため、アイドルの育成もジャニーズや日本のアイドルと同様に歌やダンスの実力よりもルックスと楽曲を重視した「未完成型」または「成長型」を目指していたのが特徴でした。1980年代~1990年代までは現在のK-POPアイドルのように「合宿生活」・「海外進出」・「トレーニング」といった練習生システムなどがまだ無く、振付師もいなかったため、ダンススクールや他の芸能事務所からダンス経験者をスカウトしてきてグループのメンバーに選抜していた。そしてそのダンスが得意なメンバーが振り付けを考案して他のメンバーに伝授するというやり方だったのである。当時、DSPに所属していたアイドルたちもほとんどトレーニング期間などを設けずにデビューしていた。

DSPメディアの最初のアイドルグループ「ZAM」

事務所の第1号アイドルであるZAMはダンスが得意だったリーダーのジョ・ジンスを中心に振り付けを作って、メンバーに伝授していた。

音楽番組出演したSechsKies

SechsKiesの場合、会社側がH.O.T.のライバルとして急いでデビューさせたかったのでグループ結成からデビューまで半年間(約6~7ヶ月)しか練習生期間がなく、ダンスはイ・ジェジンとキム・ジェドクが、ラップはウン・ジウォンが他のメンバーに教えていたが、カン・ソンフンはボイストレーニングを受けずに普段の声のままボーカルを担当していた。FIN.K.Lもボイストレーニングをしておらず、声楽専攻(大学)出身だったオク・ジュヒョンが他のメンバーたちに発声練習などを伝授していただけだった。

第2世代を代表するDSPのアイドルグループ

SS501とKARAのメンバーもデビュー当時はレッスン期間が短く、ボイストレーニングをしてないことで有名だった。SS501のホ・ヨンセンは高校1年生~高校2年生までSMエンターテインメントの子会社であるBMの練習生であったがその後、練習生を辞退しオーディションでデビュー3ヶ月前だったSS501の最後のメンバーに合流した。KARAもデビュー当時は歌が上手くないという意見が多く挙がっており、メンバーのカン・ジヨンもデビュー前に15日間だけしかレッスンを受けていなかった。この2組は最終的に個人が私費でトレーニングをするようになったという。

●DSPメディア所属の代表的なアイドルグループ

★ZAM

5人組の混成グループ ZAM

韓国のZOO
1992年にデビューした男女混成のアイドルグループ
男女混成グループとしては1988年デビューの「世代交代」に続いて2組目である。グループ名・男女混成グループ・衣装(オーバーサイズのスーツを着用)・振り付けなど日本のダンスグループZOOをベンチマークしたことで有名。デビュー曲「私は止まらない」がヒットした後、メンバーの脱退や交代、ヒット曲に恵まれずグループは解散。そのため一発屋のイメージが強い。

★IDOL 

中学生メンバーで構成されたアイドルデュオ

1996年にデビューした2人組の男性アイドルデュオ
韓国初の10代のアイドル(ティーンズアイドル・低年齢化)で、グループ名もそのまま「アイドル」である。彼らは13~14歳(中学生)でデビューし、アイドルの平均年齢を下げた。そしてその同年代感が若年層のファンを獲得し、人気を集めた。日本で例えれば¨デビュー前のKinki Kids¨、アメリカで例えれば¨クリス・クロス¨のようなポジションである。

★SechsKies

H.O.T.とライバル構図だったSechsKies 

韓国のV6
1997年にデビューした6人組の男性アイドルグループ
当初は中学生2人組の「IDOL」がデビューした後、彼らの後継グループとして1996年3月頃にウン・ジウォンとカン・ソンフンを2人組のアイドルデュオとしてデビューさせる予定だった。しかし、その半年後の1996年9月にSMエンターテインメントからデビューした5人組のアイドルグループ¨H.O.T.¨が爆発的な人気を獲得したため、DSPメディアは対抗策として急遽、事務所内でオーディションを行い、ウン・ジウォンとカン・ソンフンに4人の追加メンバー(キム・ジェドク、イ・ジェジン、チャン・スウォン、コ・ジヨン)を加入させ、6人組のアイドルグループとしてデビューした。H.O.T.は10代の女性ファンが中心だったのに対して、SechsKiesは女性ファンはもちろん、若い男性ファンにも人気を得た。グループ名・人数・2グループ制(ユニット)などジャニーズのV6をベンチマークしたことで有名。

★Fin.K.L.

S.E.S.とライバル構図だったFin.K.L.

1998年にデビューした女性アイドルグループ
当初はアメリカのアイドルグループ¨TLC¨をお手本にしており、3人組のアイドルグループとしてデビューする予定だった。しかし、前年にSMエンターテインメントからデビューした3人組のS.E.S.が人気を得たため、急遽メンバーを1人追加して4人組に再編成された。楽曲ごとに清純さ、可愛さ、成熟さ、セクシーさなど毎回異なるコンセプトを見せたガールズグループである。日本のアイドルグループ¨SPEED¨の影響も受けており、FIN.K.L.(ピンクル)という名前は視聴者にグループ名を募集してファンから名付けられた。SPEEDもテレビ番組でグループ名を募集し、選ばれたものだった。また4人組で90年代後半に活躍していた(全盛期)点など共通する部分もいくつか見られる。

★Click-B

バンド型アイドルグループの先駆け的存在

1999年にデビューしたバンド型アイドルグループ
当初は4人組のダンスグループとして結成されたが、1998年にSMエンターテインメントから3人組のアイドルバンド・BAD BOY'S CIRCLEがデビューしたため、急遽、オーディションで楽器が弾けるメンバーを4人追加して8人組に再編成された。その後、メンバーが1人脱退し、最終的に7人組でデビューすることになった。日本のヴィジュアル系バンドの影響も受けており、メンバー本人たちのルックスもかなり優れていたので、アイドル(美少年)+ロックバンドというイメージを掲げて同世代(第1世代)で活躍していたアイドルたちの警戒対象ともなっていた。初期にはギター・ドラム・ベースギター・キーボードがすべて揃っており、ロックとダンスが組み合わされた音楽を中心に活動した。DSPメディアはSMエンターテインメント所属グループより1名多いメンバー数で対抗馬的にデビューさせていたために、Click-Bも98年にSMからデビューしたSHINHWAの対抗馬として見られることが多かったが、実際はSHINHWAの6人に対してClick-Bが8人組で結成されたのでSMのグループ + 1人という法則を使っていたSechskiesやFin.K.Lとは事情が異なる。

★SS501

東方神起とライバル構図となったSS501

2005年にデビューした男性アイドルグループ
元々は、7人組で結成されたがメンバーとの不和で2人が脱退し、残った5人組でデビューした。歌手以外にも俳優、モデル、MC、DJ、バラエティ番組など幅広い活動を行っており、SMエンターテインメントの東方神起とライバル構図となった。東方神起が日本に進出すると、SS501も2007年からシングルを出して日本進出を試み、日本ではある程度の成功を収めたが、この日本活動期間中は、SS501の韓国活動がほとんどなかったため、日本と韓国の両方の市場とも中途半端な状況となってしまい、以降は良い成果が残せなかった。日本で例えれば¨¨のようなグループだとされている。

★KARA 

日本におけるK-POPブームの火付け役となったKARA

2007年にデビューした女性アイドルグループ
初期は4人組で2005年にSMエンターテインメントからデビューした同じ4人組の天上智喜の対抗馬として結成された。当初は歌やダンスなどパフォーマンス面において未熟な点が見られたが、徐々にメンバーの歌やダンスなどの実力が上がり、全体的にバランスの良いグループに成長した。彼女たちは日本の「成長型アイドル」に近いグループだと言える。ワンダーガールズ、少女時代、2NE1などと共に第2世代を代表するガールグループに挙げられる。

★A'st1

DSP初の日中韓の多国籍ボーイズグループ

2008年にデビューした6人組の多国籍アイドルグループ
メンバーが韓国人・日本人・中国人で構成されているのが特徴であり、当時、DSP側では台湾、タイ、オーストラリア人の練習生も合流させることができると明らかにしたが、それは実現しなかった。2008年4月「1234Back」という曲でデビューして人気を集めたが、グループの認知度が少し低く、ごく少数のファンには実力や曲の完成度などでかなりの好評を受けていたものの、惜しまれながら2009年にグループは解散した。

数々のアイドルグループを輩出してきたDSPメディア

1990年代後半から2000年代にかけてSMエンターテインメントと共に韓国アイドルを引率してきたが、2000年代以降はSM・YG・JYPなど他の事務所やアイドルが海外の影響を受けて発展していったのに対して、DSPメディアは、日本式のマーケティング(やり方)を目指していたので他の事務所と差を付けられてしまい取り残されてしまったのではないかと見られている。

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