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映画『PERFECT DAYS』の感想

『PERFECT DAYS』の感想は、鑑賞直後からまとめたいと思っていたけれども、ずっと書きに書きあぐねていた。この作品に感じた良さを取り出して、言葉にすることが難しいからだ。

そのまま日々の忙しさにかまけて、いつの間にか今に至ってしまった。

映画はカメラ(視点)が人物(役者)を捉えることで成立するが、『PERFECT DAYS』の主人公「平山」を撮る視点は「とても屈折している」と私には感じられた。

この〈屈折した視線〉を言葉にすることが難しいのだが、この視線から浮かび上がってくる平山という人物とその生活が持つ意味合いに私は強く惹かれた。

ここでは、その感じたことを言葉にできるように努めてみる。(そんな拙い試みに付き合ってくれる読者がいたとしたら嬉しい限りだ。)


※ 以下、ネタバレあり

屈折した視線

『PERFECT DAYS』は、良くも悪くも一人の独身男性のドキュメンタリーフィルムのような映画だ。

映像の舞台は東京の渋谷と浅草周辺とごく狭く、出来事としては極私的な生活ルーティンとそこからの小さな変化があるだけで、それより外の世界との関わりもほとんど断たれている。

カメラが映す美しい情景、平山の恍惚とした微笑みといったポジティブな写し方とは裏腹に、平山の生活と人物像はよく見ると肯定し難いものになっている。平山の人生は、素直に “こんなふうに生きていけたなら” と思えるようなポジティブなものではない。

けれども、『PERFECT DAYS』という映画は、そのタイトルにも現れているように、そんな平山の人生を最終的にに肯定しているはずだ。そのタイトルがアイロニーである可能性もあるけれども、私自身は純粋なる肯定だと信じている。

思うに、平山の人生を肯定する視線は〈屈折している〉のだ。

まずは、その違和感を言葉にしてみる。


① 無抵抗であることの肯定

平山の生活から事実だけを抽出するなら、経済的に不安定な脆い生活基盤の中、他者との深いつながりがないまま、変化の乏しいルーティンを繰り返しているだけだ。

けれども、映画の視線は、そういった状況下にいることを自己卑下することなく、ささやかな出来事と日々のルーティンに喜びを感じる平山を映し出す。

そのような平山の生き方は、とても美徳がある感じがする。今ある仕事と生活に慈しみを感じながら、一つ一つの出来事に心を動かし、ほんの些細なことでも幸せになれることを知っている。

眼差し一つで世界を微笑ましく、機微に富んだものに変えていく「視線の力」の存在を私は信じてはいるけれども、同時に、あまりに傍観者的な生き方がポジティブに映し出されていることに違和感もあった。

病気になれば一発アウトの不安定な状況にいることをもう少し改善しようとしてもいいし、親族とのつながりは諦めざるをえなかいとしても、居酒屋のママのように好意を寄せる人ともっと深い関係を望んでもいいと思えた。

平山は、今の生活にとても満ち足りているようだけれども、同時に、現状にとても無抵抗である。

とても象徴的だったのは、平山の妹である「ケイコ」が、家出して平山の家に転がり込んだ娘の「ニコ」(平山の姪でもある)を取り戻しにきたシーンだ。

実家に戻りたいくないと平山に助けを求めるニコに、平山は「そんなことを言っちゃダメだ」と弱々しく諭すことしかできない。

数年ぶりにニコと再開した平山は、明らかにその関わりに幸せを感じているようだったし、本心ではつながりを望んでいるようだった。

けれども、平山はそれまでの世界を変えることを拒み、元にいた生活に戻っていく。

そこにやむをえない事情があることは察するけれど、その現状維持的な生活がなぜ “PERFECT DAYS” なのか。

私には、その視線は〈屈折している〉ように感じられる。


② 未成熟であることの肯定

平山の研ぎ澄まされた生活はとても魅力的に映る。

朝は、ご近所さんの竹箒の音で目を覚まし、植木に霧吹きをかけ、自宅アパート前の自動販売機で一本の缶コーヒーを買い、仕事場のトイレ清掃に向かう。仕事後は、銭湯から地下商店街の居酒屋に行く。休日は、清掃着の洗濯と現像した写真の選別。それから古本屋に寄って、居酒屋の「ママ」に会いにいく。

僅かなお金の使い先は、フィルムの現像代に、古本屋で一冊ずつ買う本に、懇意にする居酒屋での食事代と、とてもミニマルに選び抜かれている。

一つ一つの行動には迷いがなく、どれもが平山の幸せにつながっているように見える。

平山の生活を “デジタル・デトックス” と呼ぶ感想があったけれど、その本質は、自分とは無関係に日々更新される外界の情報や刺激から距離を取り、「見る、触れる、感じること」の主導権を自分に取り戻すことだろう。

しかし、平山が成熟や達観の末に、そのような生活を送っているようには、私には見えなかった。むしろ、平山の人物像に強く感じたのは、人間としての未熟さであり、不完全さだ。

はじめこそ不用意に感情を露わにせず、心に波を立てない成熟した人物かのように見える平山だったが、同僚の「タカシ」によってルーティンが崩れていく場面では、平山の落胆や苛立ちが段々と露わになっていた。

一つは、仕事終わりにタカシに連れ回されて、銭湯から居酒屋に行くルーティンが崩れ、さらには大事なカセットテープを一本売らなければならなくなるシーン。その日ばかりは平山も、やりきれない表情で帰宅し、動作もいつもより荒々しくなっていた。

もう一つは。タカシがトイレ清掃の仕事を急にバックれたことで、平山がタカシの分までシフトを担当しないといけなくなるシーン。いつものルーティンが崩された平山は、トイレ清掃の派遣会社に電話をかけて、「明日からは人をちゃんと寄越すように」と強めの口調でいう。

それらの場面から見えるのは、平山の〈セルフィッシュ〉な面だ。

また、文学を好み、写真への趣があり、そこに文化的な豊かさが伺える反面、平山には欠けているものも多い。

異性に見せる明らかに過剰な反応は女性への無垢さを感じさせるし、平山の家には洗濯機もお風呂もなく、料理をする場面もない(居酒屋以外はコンビニ飯とカップラーメンを食べるシーンしかない)。平山はママのいる居酒屋に六年近く通っていると言っていたから、たぶん同じような生活をずっと繰り返していたのだろう。

平山の生活にはそれでも失われない素敵さもあるけれども、冷静になると、文学と写真ばかりに夢中になっている状況ではないのでは、というツッコミも感じざるを得ない。

映画を最後まで見ると、平山は〈大人になれなかった子ども〉のように見えてくる。

平山の生活は、平山がどのくらい自覚があるのかは分からないが、他人よりも自分のルーティンを優先し、自分に欠けていることや将来に向き合うことを後回しにして、〈今〉の生活を謳歌することによって保たれている。

平山の幸せは、上記の犠牲を込みで成り立っている。そう考えるのなら、その犠牲にしていることも含めた生活が “PERFECT DAYS” なのか。

私には、その視線もまた〈屈折している〉ように感じられる。


完璧な世界を見つけること、守ること

平山の生活や人物像は、その細部(ディテール)に目を向ければ、理想的とは言い難い。

その絶妙な細部(ディテール)から読み取ったポイントは、たまたま流れ着いた世界で、流れ着いた時から変わらない自分のまま、平山の幸せは実現されている、という事実だ。

平山の満ち足りた生活は、何かを〈改善〉することによって実現されているわけではない。

それは驚くべきことではないだろうか。

多くの場合、生きることに満ち足りなさを感じているとき、それは自身の置かれている「環境」が悪かったり、もしくは自分の性格や何かの技術などの「能力」に欠陥があるせい、と考えがちだ。

というより、それ以外に何が考えられるだろう。

けれども、それは「大人の世界」では、だろう。反対に、子どもは、自ら大きく環境を変えられるわけでもないし、生まれてしばらくは他人や自身の将来に責任を持つ能力などない。

子どもは、ただ偶然的に与えられた世界を生きるしかない。その中で、もし子どもが満ち足りた生活を送ろうと思うならば、いま生きている世界の完璧さを発見し、それを守っていくしかない。

平山の生きる世界は、子どもとしての完璧な世界だ。

おそらく様々な事情があって、平山は職業的な成功や親密圏を手放さなければならなくなった。同時に、平山からは大人として成熟することも、長期的に安定した生活を送るための機会もなくなってしまった。

ほとんどのことが偶然性に左右される世界の中で、世界の完璧さを発見し、それを手放さなかったからこそ平山の満ち足りた生活はあるのではないか。

また、そのように考えると、平山が無口であることや、周りの人と距離を置くことの理由は、自分の完璧な世界を守るために見えてくる。

平山の周囲の人物は「大人の世界」を生きている。例外は、子どもと大人の間にいるニコと社会から逸脱した「ホームレス」くらいだろうか。

「金がないと恋もできないなんて、なんなんすかぁ」と自身に与えられた環境を嘆くタカシは、同じ環境下でも完璧な世界を生きようとする平山とは交わらないだろう。平山にキスをする「アヤ」も、公園のベンチで隣に居合わせた「OL」も、「なんでずっと今のままでいられないんだろうね」という居酒屋のママも、どこか悲しげで〈今〉の生活への悲壮感に満ちている。

平山のもとに訪れたニコは、平山の生活に親近感を覚えているが、ニコの母親からすれば、平山の生活は悲惨という他ないし、自分の娘に平山のような生活を送ってほしいとは望まないし、許さないだろう。

隅田川の桜橋を自転車で横並びに漕ぎながら、平山がニコにいった「つながっているように見えても、つながっていない世界がある。僕のいる世界は、ニコのママのいる世界と違う」という印象的な言葉がある。

その言葉は、まさに「大人の世界」に自らの完璧な世界が歪められてしまうことから自覚的に距離を取っているように私には聞こえた。

平山は、「世界の完璧さを発見し、それを守ること」の実践者なのだ。


なにが PERFECT DAYS なのか

平山は子どもとしての完璧な世界を生きている。だとしても、それは望ましいことなのだろうか。

子どもならいいのかもしれない。けれども、私を含めて「大人の世界」の住民である多くの観客にとっては、平山の生活は〈脆い〉ものだ。

「大人の世界」から平山を眺めるなら、その犠牲にしているものの大きさに対して、カメラと文学と植木鉢のある生活に満ち足りている様子は、どうしてもお気楽に見える。

しかし、もし逆に描かれていたならばどうか。

もし平山がカメラと文学と植木鉢を手放して、最終的にニコと生きることを選んでいたとしたら。

あるいは、トイレ清掃員の仕事を辞めてしまったタカシのように、もっと長期的に安定した生活を手に入れるように行動していたとしたら。

おそらく、そのことで平山が幸せになれたとしても、その幸せは、ニコのような相手がいたり、安定した職を得るという結果が伴ったからであり、与えられた世界が恵まれていただけかのように見えていたのではないだろうか。

しかも、ニコや安定した職を選んだ平山が、もとの生活よりも充実している様子を、私はうまく想像することができない。

満ち足りた生活を送ることの条件は、平山のように子どもの世界を生きる人だけに限らず、大人の世界を生きる人にとっても、第一に「完璧な世界を見つけること」にあるのではないだろうか。

私が信じるところでは、『PERFECT DAYS』は、何かをより良く改善することよりも先に、また他の何を犠牲にしても「世界の完璧さを発見し、それを守ること」を肯定している。

平山にとってカメラと文学と植木鉢に当たるものに、私たち一人ひとりが出会えるのかどうかは分からないし、カメラと文学と植木鉢のある生活が、平山にとってどれだけ生きるに値にするものなのかも分からない。

一つ分かることは、私たちの選択できる自由は僅かかもしれないが、かといって、完全に不自由というわけでもなく、その間にある僅かながらの自由を謳歌することはできるということだ。

その微視的な自由を完璧なまでに謳歌すること、それが平山に託された命題ではないだろうか。

平山の生活の〈脆さ〉は、そのための代価のように思える。


脆さを生きること

『PERFECT DAYS』のラストパートでは、「老い」「死」が強調される。

ニコとの再会を境に、平山の世界は段々と変化していく。後半の展開は、まるで平山がこれまで目を背け続けてきたことのツケが回ってきているようだと私は思った。

仕事をバックれたタカシの尻拭いをした次の日、トイレ清掃の仕事には新しい人がシフトに入り、滞りのない生活に戻っていく。

しかし、その週の休日、平山はいつものように写真を現像して自宅に戻ったあと、ニコといた時に撮った写真だと思い起こされたためか、その写真の選別を止めてしまう。

そのあと、少し早めに家を出ることになったためか、ママのいる居酒屋に早めに着いて向かいのコインランドリーで開店を待っていた。すると、店のママが見知らぬ男性と抱き合っているところを平山は目撃する。逃げるように平山はその場を離れる。

劇中では、それ以降のルーティンは描かれていない。けれども、それらは不可逆的に平山の世界を変えてしまったかのように見える。

写真の現像に向かう場面の途中では、空き地の前で立ち尽くす老人と鉢合わせる場面があった。その老人が、空き地に以前何があったか思い出せないといった後、「歳を取ると物忘れがひどいからいけねえ」とつぶやき去ったことも印象的だ。

直接的には語られていないけれども、平山は、自分が守り抜いてきた生活の〈脆さ〉と、今から別の生活を選び直すことが年齢的に難しいことに、自覚せざるをえなくなったのではないだろうか。

居酒屋の前を逃げ去った後、居酒屋のママとの失恋のためか、それとも居酒屋にもう行けない心残りのためか、平山はコンビニでタバコ(ピース)とお酒(缶の角ハイボール)を買って、隅田川で黄昏ている。そこに先程のママと抱き合っていた男性が現れる。その男は自分がママの元夫であること、そして癌が転移している状態であることを告白する。

それから平山はその男に一本のタバコとお酒を譲り、ぽつりぽつりとその男は話し始めるが、その中で「影と影が重なると濃くなるんですかね?結局、何も分からないまま終わるんだな」とつぶやく。それを聞いた平山は、実際に試してみましょうと提案する。実際に影を重ねてみても色が濃くなっているようには見えない。

けれども、平山は「何も変わらないなんて、そんな馬鹿な話ないですよ」とまるで自分に言い聞かせるように必死にその男に語る。

死を前にした男に平山は自分を重ねたのだろうか。

「老い」と「死」は、誰しもが抱える〈脆さ〉である。

誰しもがはゆっくりと老い、死に向かっている。私たちは、不可逆的な変化の途中にいる。

そして、「老い」や「死」を前にした人間の〈脆さ〉は、平山が直面した自身の生活の〈脆さ〉の延長線上にある。

平山の「何も変わらないなんて、そんな馬鹿な話ないですよ」という言葉は、世界の不可逆的な変化を前に、何も抵抗できないなんてわけがない、そう言い聞かせる言葉に聞こえた。

「老い」や「死」のような途方もない不可逆的な変化を前に、私たちが自由に選択できることはごく僅かに思える。

けれども、その微視的な自由を謳歌すること。それは、〈脆さ〉と共に満ち足りた生活を送るための唯一の方法と言っていいと私は思う。


小説『パッキパキ北京』との共通性

『PERFECT DAYS』を見てから少し経って、『パッキパキ北京』(綿谷りさ著)という小説を読み始めた。

『PERFECT DAYS』と『パッキパキ北京』は、かたや映画かたや小説と媒体が異なるし、内容的にも共通点を見つけることは難しいのだけれども、私は小説を一読して両者に近しいものを感じた。

私は、二つの作品それぞれの題材を超えて、両者の根底に共通して感じるものに同じ感動を覚えた。そのことを明確にしてみたい。


※ 以下は『パッキパキ北京』のネタバレあり


『パッキパキ北京』の主人公「菖蒲」は、平山とは全然違う人物だ。見方によっては正反対と言ってもいい。

菖蒲は女性だし、年齢は36歳ととびきり若いわけでもないが、平山のように高齢でもない。

質素な生活を繰り返す平山とは違って、菖蒲は超がつくほど散財が好きだ。菖蒲は元々はホステスをしていたが、今は50代の商社マンと結婚していて、夫のお金で悠々自適な暮らしを送っている。

平山が木漏れ日のような一銭もかからない日常に愉悦を覚えるのに対して、菖蒲は他人にマウティングするためにハイブランドを買い求め、未知なる刺激と出会うことに快楽を感じる。

しかも、菖蒲はそうした享楽的な自分に自覚的で、かといって、そのことに後ろめたさを感じることはない。間違っても、自分のことを蔑んだりしない。

「良きにつけ悪しきにつけ、結論がもうほぼ出てるのに悩んだりする人って不思議」「ネガティブなこと考えながら生きてる人ってすごいなと思う」と、快楽に従順に生きることに何の躊躇もないのが菖蒲だ。

そんな菖蒲は、単身赴任中の夫に呼ばれて北京で暮らし始めることになる。『パッキパキ北京』は、未知なる土地に全く物おじすることなく、未知なる刺激を楽しみ尽くす菖蒲の冒険譚である。

平山と菖蒲の生き方は似ても似つかない。けれども、その本質は驚くほどに似ている。二人とも、周りからの目とは無関係に、自分に与えられた自由を目一杯に楽しんでいる。

平山は、上でたくさん書いたように人物像も生活も羨ましいとは言い難い。けれども、本人はそんなことに関係なく、今の自分の生活を謳歌する。

菖蒲もそうだ。マウンティングに飢えた快楽主義的な人物を羨ましいとは言い難いだろう。菖蒲の夫や友達は、そんな姿を短絡的だと憐れんだり、馬鹿にしていて、菖蒲もそのことを知っているが、生き方を変えたりしない。

生活だって一見ラグジュアリーなようで、その資金源は夫なのだから極めて不安定で〈脆い〉ものだ。どれだけ夫のお金で贅沢な暮らしをしているからといって、自分を犠牲にしてまで夫に妥協することもしない。

私との子どもが欲しいという彼は、私の夫なんだから、その考えは全然間違っていない。みんな、好きに生きる権利がある。人生の進む方向性が違うなら、どちらかが合わせればこれからも仲良くやれるけど、子どもに関してはお互い譲れない点だと思うから難しそう。どっちが悪いってわけでもない。

菖蒲は「Win-Win」という言葉を好んで使うが、「Win-Win」の均衡が崩れたなら、どれだけ短絡的だと思われようとも、菖蒲は自分の生き方を守るためにすぐに行動を起こす。

その気ままさは、外から見る人の眼差しを羨望に変える。

実際、『パッキパキ北京』の感想には、主人公の菖蒲を手放しで称賛はできないけれど、それでも羨ましいという声が多かった。この点は、『PERFECT DAYS』と似ている。

平山も菖蒲も短期的な快楽に振り切っているように見えるから、それってどうなの?と思うところもあるのだけれど、やっぱりその生き方にも、とても利があると私には感じられる。

繰り返しにはなるが、時間は不可逆的に世界を変えていくし、今がどれだけ恵まれていようと、いつか大切なものは失われていく。手に入れた環境も、身につけた知恵や技術も、最終的には死んですべて失われてしまうのだ。

二人は、何もかもを失っても最初から勝てる生き方を選んでいるのではなかろうか。

つまりさぁ、男も高級バッグも経歴も魅力も持ってないのに勝ってるのが、勝ってると完全に思い込んでる女が一番強いんだよ。シャネルも持たないで女も磨かずに、この私のままで、永久に世界に完全勝利するの

この菖蒲の理想が絶対唯一の答えとは到底思わないけれども、普段目を背けているだけの「老い」「死」あるいは「失われてしまうもの」に微力だろうと抵抗する手段が他にあるだろうか? とも私は思う。


ダメ押しに、「未来の私は今の私じゃない。私はいつでも、今の私の方が大事」という菖蒲の言葉は、平山の「今は今。今度は今度」という言葉に重なるということも付け加え、終わりにします。

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