社会的「環境コード」の強要

私たちが生きている社会というのは、いろんなコードがある。社会的規範というのかもしれない。「こうすれば成功である」「こうすればよい」みたいな価値観を人々に強要するコードだ。

このコードに沿って生きるのはとても楽である。自分が考える必要がないし、何より孤立することがない。以下は人類学視点になるが、従来はコミュニティにおける祝祭的活動が人々を孤立から救ってきた。だからこそ、人々は孤立する心配を抑え込めていたわけであるが、現代にそのような場はない。だからこそ、人々は周りと同じことをして、社会的に認められたコードに沿っていきることで、安心する。これで孤立することはないと。

しかし、そのようなコードを一回疑ってみたい。もっと主体的に生きるには、そのコードから抜け出すほかはない。

自分がどうしたいのか、直観を大切にするのだ。自分に芯がある人は強い。そういった人こそ、客観性を備えているので、コードに影響されることもない。なぜなら広い視点をもっているために、コードも客観的に見つめることができ、それにとらわれることがないからだ。

現代の人々はコードを主観的立場から近視眼的に眺めているがゆえに、それが自分にとって非常に重要なことのように見えている。まるで、自分の運命を左右しているかのように見つめている。

しかし、実際はそうではない。環境コードは社会の秩序を守るうえでは、一定程度機能しているとはいえるが、人間的な生活を送るうえでは、無意味である。

確かに、環境コードから脱することには、孤立が伴うかもしれない。環境コードからの脱出はすなわち、慣れ親しんだ価値観から、同じ意見を強要するコミュニティからの脱出を意味するからだ。

あいつはノリが悪いと、揶揄されるかもしれない。

ただし、自己実現においては、孤立した人間の方が達成しやすいということがある。これはマズローが唱えたものであるが、自己実現する人は、強い関係性をごくわずかな人と持っているらしい。

すなわち、意味のない表面的な関係性をあまり持たないということであろう。しかも、そういう人こそ、芯があるから、孤独を感じにくく、非常に自分から選択的な生活を送れるということなのだ。

こういう環境コードから脱出した人間が増えれば、いろんな価値観を認め合える、インクルーシブな社会となるのではないか。


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