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マレーシア人と日本人

1月1日に発生した能登半島地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被害にあわれた方々におかれましては、一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。

日本で地震が発生したその日、私はマレーシアのクアラルンプールにいた。
旅行中に感じたクアラルンプールの有りようを観察して、ここであれほどの災害が起これば、日本のように秩序を保てるのであろうか、と真剣に考えていた。
むしろ逆説的に、日本は幾度となく災害を経験し、それを乗り越えるために、社会秩序を優先するような国民性が育ったのかもしれない。

ペトロナスツインタワー

社会秩序


クアラルンプールは、マレーシアの首都として行政機関が集中しているだけでなく、多くの高層ビルが立ち並び、一時は世界一の高さを誇ったペトロナス・ツインタワーもここにある。勿論、地下鉄・モノレール・鉄道などの公共交通も発達している。
ただ、ここには日本の「秩序」がない。そして「ゴミを捨てる」という文化がないことが、最も気になった部分だ。

クアラルンプールは、ベンチやそこら中にゴミが放置してある。現に異臭を放っており衛生上もよくないし、都市としての景観上もよくない。
私が「ゴミを捨てる」という表記に意図しているのは、ゴミを適切に処理する、ということである。我々日本人は幼い頃から、これらの「ルール」を叩き込まれている。学校教育や家庭教育を通じて、「ゴミを出したら、自分で家に持ち帰るか、近くのごみ箱かで適切に処理する」、これが当然のものとして身についている。
確かに、ゴミが発生したあと、それを適切に処理するという価値観は教育によるものだと思うし、その教育を受けたことがないのなら、ポイ捨て(もはや彼らには自らが「ポイ捨て」という行為をしているという概念がないのか、は不明なのだが。)するのは自然なのかもしれない。


ちなみにだが、日本には町中にゴミ箱が他国と比べて圧倒的に少ない。日本を旅行するシンガポール人と友人から、「日本はどこでごみを捨てればいいんだ?」とチャットが来たことがある。このような環境であっても、あの街の清潔さはが保てているということは、日本人の「ゴミ捨て」の意識が高いことがあると個人的に思う。

そのほかにも、電車に乗るときに列を並ぶという文化もないので、乗客は電車が到着すればこぞってわれ先に乗り込もうとする。(下車する乗客とのもみ合いになるのは自明。)

ただし、クアラルンプールのように、マレー系・中華系・インド系が混ざり合う他民族都市においては、日本のように社会秩序の自律的な構築というのは難しいのかもしれない。
一方で、シンガポールはクアラルンプールと似た民族構成(なお、中華系が最大である点は異なる)であるが、シンガポールはfine cityと呼ばれるほど、ルールによる罰金制度を整備している。シンガポールは他民族国家であるがゆえに、中央集権的にルールを徹底することで、社会統一を図ってきたとされている。皆さんがご存じのように、シンガポールへはチューイングガムの持ち込みすら許されていない。

なお、クアラルンプールの秩序を矯正すべき、ということでは決してない。都市の様相は人々の価値観や生活の反映であり、外国人が口を出すべきではない部分が多い。加え、日本やシンガポールの姿を目指すべきということでもないだろう。
クアラルンプールのGrabのドライバーは、「日本はとても規律的な(disciplined)国だよね」と言っていた。そこには、日本への賞賛の意図も込められていたのかもしれないが、クアラルンプールがそうなるべきとは考えていなさそうだった。
各都市には独自の進むべき道がある。

ここから見える日本

ここで言いたいのは、海外に出ると、日本がいかに異様な国かが体感できる、ということだ(今回はポジティブな側面だが、ネガティブな側面もあるであろう)。
日本のような不文律のルールが多数存在し、国民がそれを忠実に守るという文化は、世界にもかなり珍しいと思う。その要因は、大和民族の占有度や、日本列島の孤立性、自然災害の頻度からくる社会幇助文化など、多くが絡み合っているのだと思う。
個の性格・性質というのは、絶対的なものではなく、間違いなく相対的なものだ。他の多くを見つめるからこそ、個の性質が特定できる。
海外に行き世界を見るというのは、広義的には日本のアイデンティティを強く実感する機会になると改めて実感した。

そして最後に、能登半島の皆様にできるだけ早く日常が戻ることを願っている。


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