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【時評】黙示・シネコン・絶望──『ボーはおそれている』および「映画」への怖れについて

(画像引用元:https://youtu.be/XrCg9G_OHAA?si=jGRtkQogFGxclDq3 )

 物語を成り立たせるもの。それはしばしば「工学」にもなぞらえられるほど精緻で隙のない構造・類型だ。なればこそ、批評家はそこに精神分析的な視座を持ち込むことができた。構造体としての物語を、解体することなくつなぎ直すこと。そこに、提示されたものとは異なった仕方の秩序を見出すこと。それはどこまでも作品の「拡張」として行われ、完遂される。それは変成ではない。それは破壊ではない。分析は、あくまでも物語構造の強度への、可能性への信頼によってなされる。創作もまた。

 そうした前提に沿うならば、この映画においてアリ・アスターが行ったのは「創作」ではないということになる。シネフィルによる映画、評論家による映画──無論、そのような意味での批評も意味しない。それは物語構造全体への絶望として立ち現れていたのではなかったか。

 『ヘレディタリー』、『ミッドサマー』。あるいは諸々の短編もそうであったのかもしれないが、とにかく、この長編二作において氏が行ったのは、アーティスティックで繊細な──無論、それはA24的な、しばしばスタイル的で、キッチュさをたたえたものではあったけれど──画面を、ゴア映画、スプラッター映画の方法論で接続することだった。絶叫、爆発、損壊。およそ人が恐怖するすべてのもの。およそ人を脅迫するすべてのもの。それらによって画面は駆動する。時間は加速する。物語を抜きにして。だからそのたたずまいは、中田秀夫や清水崇のそれに近い。それは絶えず映画を、物語を、そして観客の感覚を裏切り続ける(本作に関して言えば『アクアマン』なんかに近い映像文法を有していると言えるのではなかろうか)。

 ここで言う物語の捨象とは、なにも脚本が貧相、ということではない。ここで取り上げているのはより深いレベルでの絶望──なにがしかが物語られることそのものに対する絶望と、それをわれわれが感受せざるをえない、という絶望の、二重の絶望である。

 この映画はドラマを語らない。この映画は感傷を許さない。没頭、没入、耽溺──そうしたすべてを裏切り続ける。叫喚が神経を逆撫でし、そうして、観客のまなざしを主題のうちへと収斂させること。それが不信でなくてなんだろうか。それが絶望でなくてなんだろうか。ドラマの亡骸の上でわめき続けること。それが物語であると断じることが誰にできるだろうか。

 そうした絶望の束によって語られるのは──物語なき物語の中で語られるのは、やはり絶望だ。どこにも行けない、という意味での絶望でも、何者にもなれない、という意味の絶望でもない──それは生存そのものに対する根源的な嫌悪・恐怖の、最も洗練されたかたちとしてあった。

 誕生、成長、そしてその生命の「決着」──。そのすべて、人が人生と呼ぶすべて、実存という言葉が指し示すすべてが、醜悪なものでしかないということ。自意識が絶えずそれを掩蔽し続けるということ。そしてそれら主体の振る舞いを作り出した世界の方もまた、それを掩蔽し続けるということ。この世界のすべて、銀幕に映し出されたすべてが責任主体であるがゆえに、誰もその主体になりえないという絶望。この映画がその終局にあって提示するのは、そうした(どうしようもない)ヴィジョンだった。

 ボーという主体。成熟から疎外された主体としてのボー。彼を作り出したのは紛れもなくこの世界で、その橋頭堡としての母親だ(「父」は疎外されている)。しかしそれを選び取ったのは彼という主体である、という。主体、というのはある意味では幻想でしかないが、ここにおいてはその幻想が何よりも重要なものとなる。主体の過重は圧倒的なものとして存在しているが、ボーは絶えずそれを否認し続けることでしか生きることができなかった。主体という幻想を認めつつ否認すること。ここにおいて「不安」というありかた・振る舞いは、そうした主体概念の強固さの「承認(肯定)」とそれが何がしかを決定し現実を調整することの「否認」の共犯関係によって成り立っている。だがそうした自意識は、その外側の発狂した世界に対しては何の役にも立たない。「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」。〈外〉は──圧倒的な不信と絶望によって演出される、ドラマを失った〈外〉は、彼を痛めて痛めて痛めつけ続ける。それは終局において幻想であることが示唆されるが、幻想であるがゆえにそれは何よりも激しく、苦しく、痛く、そして絶望的だ。

 そう、それは絶望だった。それは過去も未来もない、許されえないありかたとしてあった。決断も責任も幻想も主体も夢もドラマも映画もまなざしもなにもかもが無効で無力で、このくそったれな世界に許されていないという絶望。横転したボートに、無人の観客席に、空虚に発光し続けるプロジェクターに、後席から漂ってくるハッカの匂いに、袋がこすれる音に、どこからか聞こえてくる咳の声に、僕はそれを感じざるをえなかった。映画を観るという行為そのもの、映画に対する希望そのもの、信頼そのものが、どうしようもなく空しいものでしかないという事態。その確信を感受せざるをえなかった。

 映画が絶望を伝達するためのツールとして完成してしまっているということ、そしてその絶望に対して、自分がどうしようもなく無力であるということと、僕は向き合わざるをえないのだろう。アリ・アスターがおそらく持っているフィクションへの絶望を、僕はそれそのもとして肯定しようとは思わない。だがそれゆえに、この映画は他のなにものとも違う、きわめて特異なものとして完成していたのだと、今はそう思う。

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