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船旅の心得

 船舶が旅の手段ではなくなり、金持ちの道楽になったのは、歴史を紐解くまでも無く航空産業が発達したからで、今、あえて船を使って目的地まで行こうというのは、離れ小島に住んでいる向きか、あるいはまた自動車を運ぶ為のフェリーくらいなもので、欧州航路だとか、大西洋航路だとかいう言葉はすっかり過去のものとなっている。戦前は、欧州まで出掛けることを「洋行」と言って、それは別に船旅に特化した言葉ではないけれども、当時の旅の手段が、ほとんど船を使うものだったのだから(シベリア鉄道に乗るという方法もあった)、必然的に洋行は船旅と分かち難く結び付いた印象を与えて、現代、飛行機で欧州まで飛んだとしても、まず洋行とは言わない。船旅の終焉と共に、一つの言葉もまた終わった訳である。だから今、船旅の気分を味わいたいと思うのなら、その金持ちに混じって豪華客船にでも乗る他はなくて、実際、現在の船旅が旅の手段でないことの証に、豪華客船の目的地は出港地、すなわち一筆書きにぐるっと回って戻って来るだけなのだから、移動の為の乗り物でないことは明白である。

 船客の方もまた、船会社が期待しているのはリタイア世代で、自分へのご褒美とか、宮仕えの慰労を兼ねて、一世一代の奮発とばかり、退職金をはたいて乗船する。もちろん、その船旅が、二泊三日で済むものなのか、一ヶ月ないし数ヶ月を要する遠洋航路であるのかによって異なるけれども、考えておかなければならないのは、視界に入る景色は水平線だけであるという当たり前の事実で、容易に想像出来ることには、誰しもその光景にたちまち飽きてしまうであろうということで、出港まもなくは、どこまでも広がる海の眺めに気持ちも大きくなり、羽根を伸ばして晴れ晴れとするのだろうけれど、来る日も来る日も、のっぺらぼうの水平線では堪らなくなって、船会社の方でもそんな事は先刻承知だから、そのクルーズのホームページなりチラシを見れば、カジノがあるとか、ショーが観られるとか、大きな船になれば、船内に映画館まで用意してあって、何とか船客を飽きさせないように工夫を凝らしている。

 だから、折角の退職金を使ってまで意気揚々と乗り込んだにも関わらず、暗室に閉じ籠って映画を観たり、騒々しいカジノで損をしたり、そんな事はおかの上でも出来る事で、一体、何の為に船旅に出たのか判らなくなり、毎日毎日フルコースを食べていたら、それこそ体重も増えて不健康になり、仕舞いにはドレスからトレーナーに着替えて、デッキの上をランニングしたりする。船に乗ったばかりに、時間を持て余して、時間を潰すことに腐心し、走り続けて来た人生の代償が、結局、甲板を走り続けることになる。これは何も、天邪鬼に、皮肉を言っているのではなくて、船旅をやめてしまった世の中が、船旅の過ごし方も忘れてしまったということを言いたいのであって、端的に言えば、船旅は愉しませて「もらう」場所ではないということである。

 レストランで旨い料理を食べるにせよ、ホテルで良い部屋へ泊まるにせよ、あるいはまた、テーマパークで一日遊ぶにせよ、そういう非日常の場、ハレの場において、ヒトは代金に見合ったサービスを期待し、享受する、つまりは何かをして「もらう」ことに慣れ過ぎてしまって、お金を払うこととは、良い気持ちにして「もらう」ことだと認識しているところがあって、仮にそれらサービスを受け続けることが出来る人生をば贅沢な人生だと思っている。その最たるものが、給仕や使用人の存在であって、金持ちは報酬さえ払えば、何にも煩わされること無く、上げ膳据え膳で楽が出来るもので、暮らしの中で、そうした受動的な側面、して「もらう」シーンが多ければ多いほど、優越と幸福を感じ、だからヒトは出世して部下にかしずかれ、金持ちになって店やホテルのスタッフからちやほやされる身分に憧れる。

 そういう発想、価値観の延長で、ヒトは期待に胸を膨らませて客船に乗るものだから、毎日毎日繰り返される水平線ばかりの世界にフラストレーションを感じ、大金を払ったのに退屈させられて損をした気分になり、船会社の方でも埋め合わせにアトラクションで賑やかしてお茶を濁す。だから、今の時代、わざわざ客船に乗って過ごそうという向きは、その、して「もらう」、愉しませて「もらう」という発想、価値観を捨てなければならなくて、本当の贅沢は何も「しない」ことであるという真理に気が付かなければならず、実際、産まれてから死ぬまでの時間が決められている、限られた人生という、かけがえのない時間の一部を、何もせずにぼんやりと過ごす、悪い言い方をすれば、時間を捨てる訳で、実に一ヶ月ないし数ヶ月という、日々齷齪あくせく働いている勤め人には信じ難いほどの長い時間を、ただ水平線を眺めて過ごす、しかも百万円単位のお金を払って時間を捨てる訳だから、それはこの上無い、究極の贅沢だと言って良いだろう。

 仮に、これから船旅に赴こうとする向きは、その退屈な時間を過ごすという覚悟を決めて、折角、長期間を社会から隔絶されて、心置きなく暮らすことが出来るのだから、わざわざ真っ暗な部屋に籠って映画を観たり、酔っ払いと楽団が大騒ぎしているカジノで呑んだくれるのではなく、晴れた日はデッキの安楽椅子にでも座って、頭を空っぽにして大海原を眺めて過ごすのが得策で、その何もしないという時間、労働しなくても困らないという時間を、思う存分に味わう、幸せな境遇を噛み締めることが、実は船旅を愉しむということの意味なのだろう。実際、古き良き時代の上流階級に身を置く者たちは、何かをして「もらう」ことはもちろん、何も「しない」ことにも慣れていたはずで、船旅と言わず、自分の城だか屋敷だかで寛いでいる時も、何もしない、何も起こらないことが当たり前で、きっと退屈という感覚すら無く、生来ぼんやりと過ごす術に長けていたに違いない。そして、そういう気質を持ち合わせている向きであればこそ、船旅を自然な日常として受け入れ、愉しむことが出来るのであって、言わずもがな、映画館もカジノも彼らには邪魔なだけである。

 それは、船旅だけでなく、実は誰の人生にでも当てはまることで、休日に何もしないことの贅沢を知る者は、逆説的ではあるけれども、休日を無為に過ごすような真似はしないもので、それはすなわち、時間の価値を知るということでもある。だから、ごろごろと過ごして、結果的に何もしない一日と、何にも煩わされること無く、意識的に何もしない一日との間には、天と地ほどの差があって、労働に汗すること無く過ごすことの出来たその一日の有難味を知る者は、誰かに何かをして「もらう」ことばかりが幸せなのではなく、何も「しない」自然体でいられること、幸せは自分の受け止め方次第であることが判っている、生き方の達人、真の上流階級であると言えるだろう。今日と言う一日が、波も立たず、風も吹かない、静かな船旅のように、ただ穏やかに過ぎてゆくことに感謝したい。

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