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二つの介護:アタマがモノサシとカラダがモノサシ

介護の仕事を始めました。「グループ・ホーム」で知的障害者(6名)の生活支援をしています。介護や看護の仕事に関心のある方、実際にたずさわっている方に読んでもらえれば、と思って書きました。

割に合わない仕事

仕事の内容は、大きく分けて3種類:

食事関係 (食事の世話・体温や血圧の測定・服薬の確認・歯磨きなど)
お風呂関係 (入浴の介助・衣類の洗濯と乾燥・布団の上げ下げなど)
お金関係 (週給や通院費の出金・小遣い帳の確認・収支報告書作成など)

私には、「介護=食事やお風呂の世話」というイメージがありました。ところが、いざ始めてみたら「金勘定」の多いこと多いこと… みんなが寝静まった深夜、食卓でひとり、電卓をたたいています。お金が介入してこない仕事なんてないか…

まったくの成り行きで就職しましたが、面接で「この仕事は割に合わないよ」って聞かされて、ピンとくるものがありました。そういうことか… 不況だろうが、コロナ渦だろうが、なくならないのは割に合わない仕事。

「人生はお金じゃない!」って言いますよね。確かに「金もうけ」がわれわれ人間にとって唯一の行動原理ではない。そうでなきゃ、結婚・出産・育児なんて割に合わないことをするはずがない。

世の中には、きっと、お金で測れない価値だってあるはずです。でも、その「お金じゃないこと」で「お金を稼ぐ」ってどういうことなんだろう?少し考えてみました。

「ワーク・ライフ・バランス」

一方の尺度でもう一方を測れない、そんな2つの異次元に「折り合い」を見出すこと。それが、割に合わない仕事のおもしろさであり、むずかしさでもあります。例えば、「仕事」と「生活」との折り合い…

「ワーク・ライフ・バランス」と言えば、仕事と余暇の時間配分がテーマ。趣味や家族・友人との時間を十分に保って、過剰労働による病気や過労死・自殺を防ぎましょう!ストレスから離職者の絶えない介護職にも大切な観点です。

でもこれは、とても限定的な意味づけ。割に合わない仕事には、より根源的な「ワーク・ライフ・バランス」が求められます。

介護する側にとっての「仕事場」は、介護される側にとっては「生活の場」。ホーム職員が節約・効率・結果を求めてテキパキと働いている、まさにその場所で、ホーム利用者が食事をしたり、仲間と語らったり、一日の疲れを癒しています。

職員はこう指導されます。

「ダイニングルームをオフィスにするな!」

食卓を業務日誌や文房具で占拠するな。資料を壁にベタベタはるな。書類はロッカーへしまえ。具体的に言えば、そういうことです。

この手の「外側のバランス」なら、まだ対処できる方なのかもしれない。私が注目するのは「内側のバランス」です。例えば、こんな失敗をしました…

早朝のことです。あるホーム利用者さんが食事中、喉にものを詰まらせてむせかえりました。大事には至りませんでしたが、驚きました。いったい急にどうしたんだろう?体調が悪いのかな?そのときは、彼自身の問題として突き放して見ていました。

でも、しばらくして、その原因が私にあったことを知りました。その頃はまだ経験が浅く、「これをして、次にあれをして…」と、自分に言い聞かせながらアクセクと働いていました。今から思えば、その「緊張感」が彼に伝播したのです。

知的障害者は身体感覚に優れています。その場の空気をカラダでストレートに吸収します。よい空気には素直に反応する半面、わるい空気の犠牲にもなりやすい… それ以後、なるべく「のんびりモード」でいることを心がけています。

「アタマがモノサシ」と「カラダがモノサシ」

職員の「仕事モード(ムード)」と、利用者の「生活モード(ムード)」とのバランス。ともすれば、前者は後者を侵食しかねない。しかも、それはお互いの内面を通じて…

個人的にバランスをとるだけでもむずかしいのに、複数の職員が協力してはたらくんだから、集団的なバランスにも注意しなきゃ!

とはいえ、「仕事モード」と「生活モード」のバランシングは人それぞれ。中には「アタマがモノサシ」の職員もいれば、「カラダがモノサシ」の職員もいる。そこには深い溝が横たわっているかのよう…

お互いがお互いを理解できないし、共感できない。そんな同僚に協力なんかできないし、そもそもしたくない。そんな対立から生じるギスギスムードに、ホーム利用者はさらされてしまいます。

【アタマがモノサシ】
・信頼するのは数値(変わらない情報・残る情報・客観的な情報)。[例]誰が測っても変わらないのが体温や血圧。
・介護の仕方には「正解」があると思う。正解=同じ知識・情報。誰がやっても「同じ」介護ができるはずだし、また、しなければならないと思う。指導者やテキストから学んだ「正解・不正解」で他人を評価したり、出来事を判断する。
・役所や病院の考え方が理解できる。ちょっとしたことでも、勝手な判断は差し控えて役人や医者に指示を仰ぐ。
【カラダがモノサシ】
・信頼するのは実感(変わる情報・消えてなくなる情報・主観的な情報)。[例]今日はなんだか、一緒にいるとお腹が張るなぁとか、肩や腰のあたりが痛いなぁとか。
・介護の仕方は、結局のところ「人それぞれ」だと思う。ホーム利用者は、性格・体質・障害もいろいろ。だったら、ふさわしい介護の仕方だってさまざまなはず。経験に照らし合わせて「自分なりに」評価したり、判断したりする。
・役所や病院の考え方に共感できない。とは言え、関わらないでいることは不可能なので、上手に利用しようと思う。

抽象思考で「同じ」に注目するか、身体感覚で「違い」に注目するか。どちらも現場を把握するための切り口にすぎないのだけれど、気がつくと、ついつい、そのどちらか片方になっています。「はたらく=自分のモノサシで測れる価値の実現」と思っているからかもしれない…

仕事をしていると、「メンドクセー」ってよく思います。思うだけではなく、「メンドクセー」ってよく叫びます。そんなときって、たいてい自分のモノサシで測ってはいないだろうか?

「面倒くさいのが仕事じゃん!」って割り切ることはしても、自分のモノサシで測れないことを、測れないからと言って切り捨てはしない。それがなかなかできないんですよね…

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