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蝉の断章の記憶 第5話

 本は部屋に並べると宝物みたいにキラキラと輝いた。ウッドの香りがほんのりと漂う。部屋の明かりを暗くすると、林の中にいる気分になった。わたしはリラックスして椅子にもたれた。読破するのにどの位かかるだろうか。二ヶ月? いや、三ヶ月? あるいは半年?  まあ、どうだって良いじゃないか。もう時間に追われることはないのだ。そのために今まで我慢して働いて来たのだから。そして今、ここに自由がある。

「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」
 子供が差し出されたお菓子を選ぶように本を順番に指差しながら呪文を唱えたわたしは、本棚から最後の巻を抜いた。机の上に広げてあっと思った。

 最初のページに書かれたタイトルは、滲んで判読できない。次のページからは白紙だった。ページをめくってもめくってもそれは続き、最後まで行った時、驚きが怒りに変わった。わたしは、本屋で、最後の巻に目を通しかけ、途中で放棄したことを思い出した。もし、わたしがもう少し若かったら、すぐさま店主に電話をしてがなり立てただろう。高い買い物をしたのだ! 当然の話だ、ちゃんとしたものと交換しろ! すぐに取りに来い! と叫んだだろう。

でも、人生の長い年月の波に洗われたせいで、わたしという人間の感情は起伏を殆ど削り取られたのかもしれない。怒りは程なく消えた。その代わり、笑い出した。そういうことも有るさ! どうせ人生は遊びなのだ。人間が作り上げた社会で遊んでいるだけだから。そして腕を組んだ。この出来事をきっかけに何か面白い物語ができないかな? わたしは店主とやり合っているシーンを思い浮かべた。

——これは落丁だろう? そうでないやつと替えてくれ。
——いやいや、それは無理というもの。この本をこの値段で買うとおっしゃったのはあなたの方ですから。それが初版本なのですから。
——そんなこと言うけど、何とかしてくれよ。

 わたしの夢想は中断された。ことりと何かが落ちる音がした。全集を並べた本棚の下に黒くて細い人差し指くらいの何かが床に転がっていた。わたしは飛び退いた。大嫌いなゴキブリ⁉︎ でもそうじゃなかった。それは万年筆で、拾い上げると墨色の鈍い光を放った。

そうか! 本のカバーと本の間の隙間に何かの拍子に紛れ込んだ? そうだとしたら、これはひょっとして、わたしの敬愛するあの作家Kが愛用していたやつ?……なんてね。わたしはクスリと笑った。わたしは大学の入学祝いに、父から万年筆をもらったことを思い出した。机に戻って引き出しの奥に手を入れてそれを探し出すと、二つを見比べた。どちらも同じ黒色のボディー。が、本から現れたやつの方が高価に見えた。

古い思い出の品を引き出しに戻して、拾った万年筆のキャップを外してみる。ペン先がきらきら輝いた。握ると軽くて手にしっとりと馴染んだ。電灯に透かすと中に波打つ液体が見えた。インクはある。なら、試し書きしようか? そう思った時、机上の白紙の本が目に入った。わたしはペン先を近づけた。

 突然、手が動き出して、その上に文字を書き出した。同時に物語の情景が浮かんだ。ペンがそれをすぐさま文章に変換した。背景の描写——主人公の台詞——相手役の登場——事件の予感——それは書くというより、浮かんだシーンを動画で撮っているような感じだった。頭の中でBGMが流れて物語が一段落したと告げた時、一ページの文章が出来上がっていた。

だが、それで終わらなかった。次から次へと新しいシーンが目の前に広がって、それを記録しようとわたしの手は忙しくなった。何も書かれていない本の紙の上で、ペンが走り回っていた。あるいはダンスしているようにも見え。と思うと、ジェットコースターみたいにゆっくり上昇し、一気に墜落するように動きを展開。汗ばむ手の平。指先が痛くなる。あっという間に十ページ近く書いていた。

 疲れを感じたわたしは本を閉じた。すると情景は消え、わたしは自分の部屋にぽつんと取り残されていた。全身が熱っていた。百メートル走の直後みたいに鼓動が激しかった。だが充実した爽快感に満たされた。今まで感じたことのない煌めきがそこにあった。長い間探し回り、それでも見つからなかったものを、とうとう見つけた。命の情熱的躍動。

 翌日からわたしの人生は変わった。わたしは朝、目覚めると吸い寄せられるように机に向かった。本はわたしの動きに機敏に反応した。机の上で昨日まで書き終えたページを開いて待っていた。万年筆を手に取ればすぐに始められた。躊躇いも不安も無い。未来も過去も無い。今のこの一瞬があらゆる事物と非事物になった。

わたしは被曝していた。指先まで。言葉に。文字に。あらゆる感情、あらゆる言葉、台詞、仕草、表情、色彩、明暗、光と影、正義と悪、神秘、大義、冷静と情熱、真実と虚偽、生死、前進と後退、爆発、消滅、増殖、絶滅、鼓動、抑圧、禁断、禁忌、暴発、緊縛、怨呪、きらきらと洪水のようにそれらがわたしの指先に集まって吸い取られ、エネルギーを爆発させ、文字となってインクの色に還元されて吐き出された。

 ペンの動きはエスカレートした。我に帰ると夜中であったり、朝であったり、昼であったりした。どんどんページが書き加えられた。その間わたしは、自分と自分以外の全ての人になり、時には風に、時には花に、時には岩にもなった。神のように万物を制御した。新しい世界を作った気分だった。
万年筆はわたしの忠実な下僕だった。主人公に感情が乗った時にはテンポを上げてプレストで進み、彼が葛藤しているシーンではアンダンテで、物思いに沈むときはラルゴになって演奏しているように進行した。

不思議なことに、万年筆は一字も間違わなかった。だからわたしも一度も止まらなかった。書き始めた時から次々とストーリーが浮かび、並べられ、展開していった。最後の大団円で一瞬立ち止まったくらいだった。劇的な幕切れの後、わたしの身体は完全燃焼したように熱くなり、完成の喜びで恍惚となった。生きていることに感謝し、誰かとこの感情を分かち合いたいとどんなに思ったことだろう。

わたしはいつまでもこの瞬間の中に漂いたかった。書き上げた物語を最初から読み返し、校正が必要か調べようか。すでにわたしは一人前の、世に出た作家の感覚になっていた。

 生きるとはこういうことなのか? 歌うとはこういうことなのか? 確かにわたしは歌っていた。わたしは歌い始めていたのだ。人生の讃歌を! こんな幸福な気持ちになったのはいつだったろう? わたしは目を閉じた。記憶は子供の頃に飛んだ。それは夏休みに父に連れられて行ったキャンプだった。わたしは虫取りに夢中になっていた——。

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