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蝉の断章の記憶 第6話

 明け方の弱い光が樹葉の隙間から漏れ。それは幹に張り付く蝉の幼虫の背中を立体的に見せた。父とわたしは息を潜めてじっと見ていた。幼虫の背中が音もなく割れた。時間が静止する。驚きがわたしの内部一杯に満ちた。

裂け目が縦に広がって、少し揺れてから、それは見えない扉を開けるように頭を出した。世界を伺うように。初めて試す呼吸。純白な二つの目。汚れていない神秘が初めて触れる世界。その目はまだぼやけていて何も見えていないようだった。

見る間に、体は半分以上殻から抜け出して、いきなり後にそり返る。わたしは、彼が地面に落ちそうで不安になる。しかし、その足は木の幹の凹凸と完璧に一体化していた。初めからこの世界に存在したかのように安定的だった。

いきなり動きが速くなる。最初に縮んだ羽が、続いて足が見えた。そのあと胴体が現れると、それは幼虫のすぐ側の樹幹に足を掛けてぶら下がった。体重が足の爪の先にかかって体が揺れた。年輪が刻まれたような模様の胴体が同調して揺れる。幼虫はもうそこには居なかった。それは抜け殻で、目は透明な薄茶色になっていた。そこに命は無く、完全に無機的な存在になっていた。

 羽が徐々に伸び、光に体が着色されてゆく。そこには新しい生き物がいた。羽が完全に伸びるとそれが透明になってしっかりと木の幹に留まった。葉脈のような羽の模様。父とわたしは顔を見合わせた。まるで、自分達が今、この世界に誕生した驚きを確かめ合うように。

 わたしは自分を蝉だと思った。自分の人生を蝉の一生に重ね合わせたのだ––––。わたしは人生の大半を人間社会という冷たい土の中で暮らしていた。その間、決して日の目を見ることはなく、ただ黙々と土をかじり醜い姿で年輪を重ねていた。しかし、潜在意識の中でいつかそれは終わると信じていたのか? 多分そうだろう。そうでなければ今まで生きて来られなかっただろう。偶然?  運命? 神の悪戯? それとも本能によって? 

とにかくわたしは深い穴から地上に出た。そして幹を登り、仮死状態になり、再び目覚めたのだ。わたしは今までの全ての時間を取り戻すため歌う。過去を凝縮して。蝉は二週間しか歌えない。何年も地下に居たのに。でもその見返りに、太陽の光と緑の世界をもらい、風の音を味方につけて歌うのだ。

 目を開く。本の空白は最後の一ページまで埋まっていた。最初から読み返してみる。息が荒くなった。結構いけているじゃない? 嬉しくなったわたしは部屋を歌いながら歩き回った。これを世の人に読んでもらえたらという願望が宿った。わたしは思いを巡らせる。懸賞に応募して……誰かの目に留まり……出版して……映画になって……今までとは違う人生が……世界を旅してホテルを巡り……取材して……次の作品の構想を……華やかで輝いているわたし。生まれ直したわたし。そんなわたしの物語を描いているわたし。

わたしは、自信と希望に有頂天になった反作用で、高揚した気持ちを抑えようとした。落ち着け! まだ何も始まっていない! 大事なことはこれが本物かどうだろ? それをまず確かめよう。それには第三者の目でこれを読まねばならない。どうしたら? 目を開いたわたしは本を閉じた。

「分かった」

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