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蝉の断章の記憶 第4話

 そこは古書を扱っている店だった。外から見るよりずっと広かった。店内は外の明るさとは対照的に、暗くひんやりしていた。それに何十年も前から有るようにカビ臭い匂いがした。入れ替わりに客が出ていったので、店には、奥で背中を丸めて座っている店主以外誰もいなかった。

コの字型に配置された本の壁の中を、わたしはゆっくりと見て回った。文庫本や新書が綺麗に並べられていた。美術書や学術書、絵本、画集、漫画、雑誌、地図、ビジネス本——。手に取るとどれも綺麗に手入れされていた。古本によく有る痒みを感じなかったし、紙魚も見当たらなかった。子供時代に読んだ本を見つけると嬉しくなった。

 そのうちわたしは全集のコーナーに目を止めた。著名な作家の全集がいくつも並んでいた。威圧感が有った。手に取ってみる。紙が上質で優雅な気分になった。それに、視力の落ちたわたしには、活字が大きくて読み易かった。

今まで全集を読んだことなど無かったわたしは、自分の未来を思った。目の前に広がる海のような時間を泳ぐのに、手始めとして丁度良いのでは? 値は張るだろうが、古本なら何とかなるかも。どれにしようか。わたしは目の前にお菓子を差し出された子供のように腕を組んだ。

「どうです。なかなかのものでしょう」

 突然話しかけられ、飛び上がりそうになった。店主がすぐ後ろに立っていた。それから少しどきっとした。愛想笑いを浮かべていた男の右目は義眼だった。片目だけ人間でない違和感がわたしを捕えた。男はわたしの心を察したように、
「鳥に目をやられましてね。カケスは光る物が好きでして」
 そしてすぐに言葉を繋いだ。

「どれも美品ですよ。お気に入りのものが有りましたら、お申し付けください。それから実はお見せしたいものがこちらに」

 急に声が小さくなると、男は自分が座っていたカウンターに向かって歩き出した。わたしは誘われるように従った。カウンターはガラスケースになっていた。ライトがほんのりと中を照らしている。光が中のガラスの棚に落ちて乱反射し、眩しかった。何かが星形の模様に並べられていた。どこかの国の紋章にも見える。一つ一つが独立して輝いて。これは宝石? いいえ! 

男から渡されたルーペ越しに覗き込むと、それはミニチュア本で、一冊が親指の先くらいしかなかった。男はカウンター越しにガラスの扉を開けると、白手袋をした手を入れた。丸い視野の中で万華鏡みたいに男の指が放射状に広がった。ハレーションが起こったみたいで、一瞬目が眩んだ。

 ルーペを退けたわたしはびっくりした。わたしの前に普通のサイズの本が整然と並べられていた。どれも金箔を施してある豪華な装丁。透過した長い歳月を感じさせる年輪のような模様。外見は彫刻のような美しさがあった。それに、ウッド——渋みのある香水——の匂いがうっすらと。ヴェールで顔を隠した貴婦人が近づいてきたようで。思わず振り返ったが誰もいなかった。背表紙に金色で彫られた数字を目で追うと、全部で三十まで有った。

「初版本です。どうぞご覧ください」
 男は白手袋を脱ぎながら促した。カウンターの上でわたしは本を開き、
「これは!」
 思わず叫びそうになった。文字が手書きだったからだ。それは万年筆か筆で記されているようだった。所々掠れていたが、読むのに支障は無い。

「『初版本』というなら……これが本当の『初版本』だとお思いになりませんか?」
 男の声が遠くから——地の底から——聞こえるような気がした。ドキドキしながらわたしはページをめくった。まるで今書き上げたばかりのような熱気が文字から伝わってくる。作者の息づかいも感じられる気がした。わたしはすぐに引き込まれた。読み進むと、自分が小人のようになって文字の上を歩いているような感覚。しばらくして我に帰ったわたしは、頬が紅潮していた。夢中になった気まずさを押し殺して顔を上げたら、店主の自慢げな視線とぶつかった。

「どうです? お部屋に飾るだけでも素敵ですよ」
 確かに! わたしはもうこれを買おうと心に決めていた。が、すぐに返事をしなかった。長年の読書体験が、この本の真の価値(わたしにとっての)は、外見ではなく、中身——それは新種の生き物達が生息する未踏のジャングルだった!——に有るとわたしに教えていた。わたしは何冊かを手に取った。予感は次第に驚きと喜びに変わった。こんな事が有り得るのだろうか? どの作品も斬新な表現、リズムを持っていて、わたしを捕らえた。新しい世界観が次々とわたしを圧倒した。それはわたしの魂を何度も鋭いナイフで突いた。黙読しているのに、誰かが側で朗読しているように感じた。

ページをめくりつつ、今やわたしの脳みそはフル回転していた。初版本ならきっと値が張るに違いない。ましてや、手書き! しかも作品は、わたしの知らないものばかり。古今東西の文学を殆ど読み尽くしたと思っていたのに。果たして一体いくらだろう? 想像もつかなかった。チラッと店主の様子を伺ったが、表情が見えなかった。わたしは冷静になろうとした。何気ない素振りでテントの中を見回す。オークションで取引されるようなものがこんな所に現れる訳が無いだろうし。でも、蚤の市でたまに見かける掘り出し物ってひょっとしてこんなタイミングで……盗品?……まさか!

鼓動が激しくなる。わたしはどうしても欲しくなった。これは運命的な出逢いではないだろうか? わたしは長い人生の経験から、物の値段なんて、有って無いようなものだと知っていた。幸運の女神は後ろ髪が無いことも! それに、新しい生活を始めたばかりの新鮮な気持ちと、外のお祭り気分が重なって、ハイになっていた。頭の中で価格交渉をする作戦会議を終えるまで、もう少し本を調べることにしよう。わたしは拾い読みを続けた。エンディングは読まないようにして。

そのうち妙なことに気付いた。物語はどれも一冊一話完結で書かれていたが、筆跡が全部違うようだった。文体もそうだった。すると作者が違うのか? 大体誰が書いたの? 背表紙には数字しか打たれていない。全集だから目次がどこかに……手がかりを得ようと、読んでない第一巻を見る。しかし、他の巻と同じで、タイトルだけのページが有って、次ページから始まっていた。だったら、最終巻に目次と索引が載っているのかな。それに手を伸ばしかけた時、店主の携帯電話が鳴った。

「……そうでございますか? 承知いたしました。恐れ入りますが、今ちょっと取り込んでおりまして……終わりましたらすぐお電話差し上げます……はい……ですから……駄目?  今すぐ……でございますか?  少々お待ちください」
彼はわたしに微笑んだ。それからすぐに困った表情になった。

「お客様、実は」
「何?」
「先程のお客様もこちらをご覧になっておられまして、そのままお帰りになられましたが、まだ売れてなかったら欲しいと」

わたしは舌打ちした。競争相手がいきなり現れたのだ。どうするかすぐに決めねばならなくなった。店主は携帯電話を保留にしてわたしの返事を待っている。ひょっとして電話の相手はサクラ? まさか! そんな手の込んだことしないだろう。わたしはさっきすれ違った客のことを思い出した。時間が決断をせかす、どうしよう? 

店主はわたしに微笑みながら囁いた。
「人生は幸運か不運かの選択をいつも迫ります、お客様は今、Y字路で立ち止まっていらっしゃる。右へ行けば幸運、左は不幸でございます。私は、そこに立っている人間がどう動くのか見るのがとても好きなのです。その瞬間、人間の生そのものが透けて見えるからでございます。決断は幸運を、躊躇は不運を招きましょう」

わたしは腹を決めた。
「いくらになる?」
と尋ねる代わりに、わたしはイエスの返事をした。まず邪魔者を消してから……。
「分かりました。ありがとうございます」

それから三時間、わたしは値段交渉のために店で粘った。いかにこの本が欲しいか切々と訴えたかと思うと、どれだけ自分がこれを買うのに相応しい人物なのか屁理屈を並べたり、脱線して今まで読んだ本の中でどれが面白かったか語ったりした。あるいは駄々をこねる子供みたいに泣きそうな表情で懇願したかと思うと、急に横柄な顧客の態度になって男とやり合った。

目次が見当たらないのは、焼失したらしい。その代わり、彼は作者とタイトルの記された古い和紙のメモをくれた。誰が作成したのか不明だが、第一巻の最初のページに挟み込んであったという。わたしには、それは、全集が傷物だという口実となった。わたしを熱くさせた理由がまだ有った。メジャーな文学賞を取った有名な作家の作品(それも未発表)が三点も含まれていた。直筆かどうかは、詳細な鑑定が必要だった。しかしわたしはそんな金銭的価値よりも、まずその作品を楽しみたかった。

交渉が終わる頃には、彼の義眼も気にならなくなり、彼に親しみさえ湧いた。テントを出ると、夕暮れの、塔のように長く伸びた影がわたしに寄り添った。

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