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初恋 第26話

 最後に言っておくと、——これは僕が大学生になってから知ったのだが——というのも僕が政府のある研究機関に数学の専門家として招かれた折に偶然知り得た——、ラストは国の極秘プロジェクトのメンバーだった。それは次のようなものだった。
 
 この国と同盟関係にある某国では異常な勢いで高齢化が進んでいた。若い人たちは子供を産まなくなった。それは、経済的理由あるいは個人の自己実現のためだろうと言われた。逆に、医学の進歩で病気は駆逐され、ねずみ算式に老人が増え続けた。

これでは、あと数十年もすれば生産的な世代は人口の三割程度になってしまう。それは国が滅びることを意味する。そこで窮余の策として新薬を極秘で開発することになった。薬は遺伝子を組み替えたものだった。それは八十歳頃になるとみんな猫になるという極めて画期的なものだった。

 なぜ数ある地球の種の中から猫が選ばれたのか? それは人畜無害で、かつ、増えても誰も咎めず、過去から長く愛玩動物として人間と共存できるという理由からだった。一例を挙げれば、犬の場合はより人間と近い関係を結べるが、時として凶暴になり獣の本姓を見せる恐れがあった。しかし、猫なら、その可能性は低いだろう。

どんな提案にも必ず反対する奴がいる、今回の件もそうだったが、その効果を信じた父やその親派はプロジェクトを強引に進めていった。だが社会的、医学的に十分な検証期間が必要だった。

折しも、新型ペストがこの国に蔓延したのが、プロジェクトを進める千載一遇の追い風となった。まず、ペストに対抗するワクチンは、普通なら何年も治験データを集めて効果や副作用を確認するはずが、余りにもペストウイルスは繁殖力が強かったため、充分な時間が無かった。

世界中で死者が、埋葬するよりも早く積み上がった。各国は必死にワクチンを開発した。そして手っ取り早く片を付けるため、リハーサル無しでいきなり本番用の衣装を人々に着せたのだ。

この国でもそれは同じだったが、違っていたのは、某国ではワクチンに猫遺伝子変換新薬も合体させことだった。それが将来、人間を猫に変えるなんて誰も信じなかった。ある意味、ワクチンのおまけか金魚の糞みたいにしか思っていなかった。

しかし、父は確率から、変換が起こるのは人口の一割ぐらいで八十歳ぐらいだろうと予想して自ら実験台になった。何回かワクチンを打つことで猫変異遺伝子は人体に組み込まれ、将来、猫が増えればこの新薬はこの国の人口政策に計り知れない影響力を持つことになる。長い年月を経て進化した人類の一つの生き方と言えるだろうか。

 国全体が若返れば、若い人たちの考えが世の中を動かしてゆく。(僕もその一人だが……。)将来、誰もそれを非合理だと思わなくなるだろう。

八十歳——平和な文明国で、誰でも一度は人生の倦怠を感じる年齢——結婚し、子供を育て、やがて彼らが独立し、老人となった夫婦。あるいは独身でも、過去を振り返り、人生に精神的、肉体的な疲労をふと覚えるその瞬間——に変異は起こる。

それが八十歳のいつかは誰にも分からない。でもそんなことどうでもいいじゃないか。僕たちはまだ若い。ともかく、社会や家族や子孫に負担を強いるのは良くないという父の良識が、この新薬に反映されていた。

どれくらいの数の人間が父のように実験台になったのかは、関係書類が全て処分されたので今ではもう分からない。父の初恋の相手が父と接触した際、いわば仮死状態になるロメオとジュリエットのようにその薬をお互いに服用し合う姿を僕は想像した。
 

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