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”人の変化”という甘美な罠

とある人と一定の期間関わり、その過程の中で社会において善いとされる価値基準からして望ましい変化がその人に起きたとき、そこに居合わせることができたことで自分が得られた果実を”どのように”もぎ取りって摂取するか/しないかには、職業人としての価値観が現われると思う。

べてるの家の向谷地さんが書かれた書籍内で、関わりに大変労力を要する患者さんの支援がひと段落した際に、医療スタッフ間で一体感や高揚感を共有することがあるが、そういった場から、この仕事のやりがいを調達しないことに決めた(意訳)といったの描写があるのだけど、そのことを定期的に思い出す。

「関わりの過程の中で社会において善いとされる価値基準からして望ましい変化がその人に起きた」事実を”自分の手柄”のように語る人に嫌悪感を覚えるのは、そう認識すること自体が、人に対する敬意の欠如と「たまたま」という偶然性を排したおこがましさを感じるからなのだろうな、と。

人の変化というのは、甘美で魅力的で、その変化に関与できたと認識することは、そう認識する者に高揚感や達成感、自己効力感などさえも与えるだろうけれども、そういった類(たぐい)に対して禁欲的であることは、また違った果実を手にする機会を与えてくれるように自分は思う。



おふたりの方からレスポンスをいただいたので、内容と応答を以下に記しておきます(ありがとうございました)



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