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支援の「責任」

一応福祉の業界でお仕事をさせていただくようになってそろそろ20年近くを迎えようとしています。
今は経営や運営に携わることも増えてきていますが、それでも現場支援、というか利用者さんの支援にはまだまだ携わらせてもらっています。
現場が好きなので、全く離れてしまうことはどうやらできそうにない非常にコスパの悪い性分なんですが。
 
 
 
特に僕が今いるフィールドは、障がいを持たれた方が社会に出ていくための支援をしていて、「支援」とは言っていますが、場合によって「職業指導」というような指導的な側面や、「コミュニケーションスキル」などに代表される教育的な側面、そして本人固有の特性に対してサポートをする支援的な側面というふうにいろんな意味合いを含んでいるように思っています。
 
 
僕らは支援者としていろんな側面から利用者さんにアプローチを行っていきながら、その様々な意味合いをもつ「支援」というものを行っていきます。
 
 

それを踏まえた上で、これは僕が管理者とかやってるから余計に思うのかも知れませんが、いつも考えるのは僕ら「支援者の責任ってなんだ?」ということです。
 
 
責任、っていうと急に重苦しく感じる人もいるのかも知れないですが、何かペナルティと紐付けたいわけではなく、他者から責められるものを指しているのではなく、自分自身に問いかけるものとしての意味での責任です。
 
 
僕は就労移行支援の支援者、なわけですが、じゃあそんな僕が果たすべき責任は「利用者さんが就職すること」なんでしょうか。
生活訓練の支援者だったら「利用者さんが身辺自立を果たすこと」なんでしょうか。
その理屈でいくと作業指導をしているスタッフの責任は「この作業が行えるようにすること」になったりします。
そこに疑問を感じてしまいます。
  
 
いや、それ自体が間違っているとは思わないんです。ただ、それが「全体」なのかな?という疑問です。
僕にはそれはあくまで支援者の「タスク」のひとつであり、「全体」ではなく「一部」じゃないのかな、と思うんです。
 
 
例えば「タスク」として支援に携わっていると、自身のタスクを果たせば責任を全うしたことになる感覚になるのかな。タスクが目的であり成果であり責任であり、それをやれば自分の責任は果たした、と考える。
でも、就職する、身辺自立ができている、作業が行える、集団行動に適応ができる、みたいなことを繋いでいってそれが果たせたら支援が達成できているか、というとなんかちょっと違う気がします。
つまり、支援をする上で本当に考えないといけない責任ってもう少し大きなところにあるんじゃないのか、ということです。
 

 
 
何でこんな話をするのか、というと、利用者さんの支援を行っている中でやっぱり一歩踏み込みにくいことだったり、逆に踏み込んではいけないことだったりの際の判断に迷うことが多分あるんです。その時に支援の責任って何なのか、の部分の価値観によってその解答が大きく変わるんだろうな、と思うからなんです。
 
 
確か目の前にいる利用者さんって、それが障がいと呼ばれるもののせいかどうかを含めて「生きづらさ」を抱えている方のはずですよね。そして僕ら支援者はその利用者さんが出来る限り自分で世の中を生きていけるようになるために支援をしているはずです。
言い換えると、「どうしても支援を受け続けないといけないこと以外は自分で何とかすることができるようになるため」の支援です。
 
 
生きづらさって「作業ができない」ことでも「身辺自立ができない」ことだけでも「就職できない」ことだけでもないんじゃないかと思うんですね。
もっと個人の「生き方」とか「考え方や捉え方」とか「自分との付き合い方」「向き合い方」みたいなところにあったりする場合も少なくないんじゃないかと思うんです。
 
 
 
僕は割と踏み込むタイプで、周囲から見ると踏み込みすぎと見る人も多分いるんじゃないかと思うんです。
シビアな話もしますし、厳しいことを言うこともあります。
表出として「叱る」という表現が利用者さんに一番伝わる手段だと判断すれば叱りもします。
 
 
個人としては「叱る」のも嫌いですし、シビアな話も厳しいことも言いたくありません。タスクを完了するためだけだったら必要ないこともたくさんあるんですが、僕にとっての支援の責任はそこではないので目を背けることができません。
 
もし僕が踏み込みを見誤って日和ってしまったら、つまり僕がご本人にきちんと人が生きていく上で大事なことを伝えることを取りこぼしてしまったら、誰がそれをやるんだろう、と思うからです。
タスクばかり支援を受けて、「生き方」も「考え方や捉え方」も、「向き合い方」も誰もふれることなく社会に出た時に、いくら仕事ができても、いくら就職できても、いくら身辺のことが自立していても彼らの生きづらさって変わらないんじゃないか、と思うからなんです。
 
 
制度上、僕ら支援者はいろんな事業種別の中にカテゴライズされて、気がつけば就労移行だったら一般就労することが支援になり、就労継続支援だったら工賃や給与を稼ぐために仕事に邁進することが支援になり、生活訓練だったら身辺自立をすることが支援、というような感覚に陥るんですが、元来僕ら支援者って当事者の「生きづらさ」がどこにあって、どんなサポートをするとそれが軽減するか、生きやすくなっていくかという「全体」で見なきゃいけないはずなんですが、何となく誰も当事者の内面にふれないまま支援が進んでいることってあるんじゃないか、と危惧してしまうことが少なくありません。
 
 
だから、自分がもし取りこぼしてしまったら、彼らの本当の生きづらさを誰もさわれずに外壕ばかり埋まっていって、それでも実は本人の内面的な生きづらさは全く変わらないというようなことが起きるんじゃないか、と考えてしまうんです。
 
 
 
すごく私的な話っぽくなってしまったんですが、支援の「責任」って、きちんと利用者さんの人生を前に進めるために取りこぼしちゃいけないことは取りこぼさない、そこをしっかりと見極めて支援者自身が日和らずに向き合うってことなんじゃないか、という話です。

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