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怠惰な妥協へのひたむきさ


私は、〇〇係、という役割付けが、あまり好きではない。

特に、伝統・風習、ひいては馴れ合いによって、

ただただ位置づけられた、役割は、何も意味がない。


代々、▲▲の人たちが、これを担ってきたから、あなたも。



これは、もう伝統・風習ではない。

個人の意志を無視した、ただの押し付け、と捉えられても仕方がない。


そうでなくても、

始めは、自分の意志で(または、引き受けざるを得なかった)役割に付いたとしても、

その初心は、いつの間にか消える。



いずれにしても、意志・責任が伴わず、

ただ"〇〇係"と名の付く人と化してしまう。

だから、肝心な時に機能しない。


そんな係は、もはや必要ないのだ。

極論、無くしてしまった方が、いい。




私にも、誰にでも、怠惰は存在する。

私にも、誰にでも、面倒だと思うことは存在する。


現在、多くの組織での、"係"というのは、

伝統という名の、風習という名の、

怠惰の妥協とも言えるのだろうか。


みんなできるはずなのに、

やりたくないから、仕方なく誰かにやってもらう口実。


さらに、誰しもが思う、


"きっと誰かがやってくれる"


という、他人の善意を喰いものにする心が、

この奇妙な係を作り出してしまうのだろう。



結局、自分ではない誰かに、

伝統・風習という名のもとに、

係を負わせる。



だから、思考停止になる。

やがて、意志も、責任も、感情も存在しない。


これらは、一概に否定できない側面も存在するが、

絶対的に肯定もできない。




だから、係を負う、という姿勢には、

本来、誠実さがなければいけない、と思う。


たとえ、その怠惰の妥協によって、

不本意な係を押し付けれたとしても、

それを断る素直な勇気も、

それを受け入れる真っ直ぐな覚悟も必要である。


一方で、係をお願いする人は、

個人の意志を尊重し、

誰かがするという他人事を持たず、

係という枠に押し込めないようにする配慮が必要である。




ひたむきな姿勢。

小学生の時には、あったはずなのに。

いつしか消えてしまった大切なもの。



それが、あるのとないのとでは、

やはり、様々なことに対する向き合い方、

特に、周囲の人の心を動かす度合が違ってくるような、気がする。





今日、機能しない係の存在を見て、ふと思う。


係を担う側も、担わせる側も、

ひたむきさを失わないようにしないと、

何も機能しなくなる。

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