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「結果よりも過程」は、自由の中でこそ

 大学3年の夏もまもなく終わる。そう考えると、来年は学生最後の夏だという一抹の不安が頭を過る。しかし、そんな不安よりも先に思い浮かぶのは、内定がもらえるかということである。そう、私は今、就職活動中である。

 まだまだ数多の業種の中から企業を探す段階にいる自分は、やりたい仕事か、やれる仕事か、働き甲斐か、働きやすさか、東京で働くのか、地元に帰るのか、と決めきれないことばかりである。せめて実家が東京だったら、地元に帰るという選択肢がなくなって、不安要素の一つくらい減るのになと、今更どうしようもないことを嘆いています。そして、これが度を過ぎると、職業選択の自由がなければ、就職活動さえなかったのではないかと、人類の自由獲得の歴史を否定したい気持ちになったりならなかったり。

 自由はいつも、自己責任と隣り合わせだ。選択肢のない不自由な世界では、そこに自分の意志が介入する余地はなく、したがって責任も問われない。しかし、A社かB社かと、選択肢が複数になった途端、自らの意志でもって選択しなければならない。だから、志望理由が問われるし、選択に対する責任も生じる。自由は大切だが、ちょっと厄介でもある。

 だが、不自由な世界には「納得」がない。自由な世界には、それがある。人類が不断の努力によって獲得した自由はだから、納得感のためだったと言えるかもしれない。こう考えると、今、決めきれないことばかりで頭を悩ませていることは、ある意味、当然なのかもしれない。社会人になってから「納得感」をもって仕事に励もうとするなら、自分が何を大切にしたいのかということを腑に落ちるまで考えぬく必要があるように思われるからだ。

 同時に、高校時代の恩師の言葉を思い出す。「大切なことは、期待された人物になることよりもむしろ、自分が何者でありたいか考え、悩みながら学んでいるその過程に隠されていると思います。」つまり、結果よりも過程。それは、自由な社会の中でこそ、大切なのかもしれない。


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