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短編小説「思い出を盗んで」

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オフコースの「思い出を盗んで」という曲にインスパイアされた短編小説です
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短編小説「思い出を盗んで」その1 序章

短編小説「思い出を盗んで」その1 序章

オフコース「思い出を盗んで」より

序章 部屋のドアを開けると何もなかった。正確に言うと、ベッドと椅子と机と戸棚という最低限の家具しかなかった。
 
 中庭に行ってみると、待ち人来たらずといった感じでベンチが淋しげに蹲っているだけだった。
 
 裏の丘に足を運んでも見慣れた風景が広がっているだけだった。
 
 ただ一つ違うのは居るべき人が居ないこと。私は彼がいつも寝転がっていた場所に腰をおろ

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短編小説「思い出を盗んで」その2 冬の日の午後

短編小説「思い出を盗んで」その2 冬の日の午後

オフコース「思い出を盗んで」より

その2 冬の日の午後 私が彼と初めて出会ったのは一年ほど前の初冬の頃だった。

その日は小春日和で暖かな日差しが心地よかった。婦長に施設の中を案内された私は戸外ヘ出た。デッキにはベッドが十台ほど並べられており、その半分くらいに人が横たわっていた。皆気持ちよさそうに目を閉じている。

 「暖かい日はなるべく日光浴してくださいね」

 婦長の言

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短編小説「思い出を盗んで」その3 小春日

短編小説「思い出を盗んで」その3 小春日

オフコース「思い出を盗んで」より

その3 小春日 「新人さん?」
 
 その声に私は我に返った。あまりにも絵画的な風景に心をとらわれていた私は彼が声をかけてくれても暫くは気づかなかった。そのことに気づいた私は恥ずかしさのあまり頬の辺りが熱くなっていった。そんな私に構わず彼は微笑みを浮かべながら言葉を続けた。
 
 「今日入所したの?」
 
 「あっ、はい」
 
 「そうなんだ。僕はこの春からだか

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短編小説「思い出を盗んで」その4 石油ストーブ

短編小説「思い出を盗んで」その4 石油ストーブ

その4 石油ストーブ それから私は出来るだけ彼の側で過ごすようになった。

 周りから特に好奇の目で見られることもなく冷やかされることもなかった。療養所に入ってこられるのだから経済的に恵まれている人ばかりだし、それだけに心にも余裕があるのだろう。そして病気が病気なだけに私たちは家族や友人たちともお互いが遠慮しているところもある。場所も人里から離れており俗世間から切り離されていた。そういうこと

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短編小説「思い出を盗んで」その5 春セーター

短編小説「思い出を盗んで」その5 春セーター

その5 春セーター 春になり暖かな日が多くなると、私たちは場所を食堂のストーブから中庭のベンチに移した。場所が変わっただけで、することはあまり変わらない。私は刺繍をして彼はスケッチをしたりノートに走り書きをしていた。時折、彼はバドミントンやキャッチボールに誘われ、相変わらず機嫌よく応じていた。そんな時、運動が苦手な私はベンチに座り彼の動きを目で追うだけだった。 

 ある日、彼がベンチ前のテーブル

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短編小説「思い出を盗んで」その6 蝉時雨

短編小説「思い出を盗んで」その6 蝉時雨

その6 蝉時雨

夏の昼下がり。

 青い空に入道雲が湧き上がっていた。中庭の木々からは蝉たちの声が賑やかに響いている。

 彼は二階の私の部屋の窓枠に腰を掛け手摺に体を預けて外の風景を眺めていた。

 私はベッドに座って彼を見ていた。

 「何をそんなに熱心に見てるの?」

 彼は外を見ながら応えた。

 「不思議だなって」

 「何が不思議なの?」

 「夏は暑いし蝉たちは一生懸命鳴い

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短編小説「思い出を盗んで」その7 十三夜

短編小説「思い出を盗んで」その7 十三夜

十三夜
 彼の転帰はいきなりだった。

 その夜。

 消灯時間がきたので私は読みかけの本に栞を挟んで机に置いた。机の電気スタンドを消し、そのままベッドに入ろうとしたが思い直して本棚に本をしまった。

 自分で片付けしないと片付かないのよね…

 私はいつか彼から聞いたエントロピー増大の法則のことを思い出して独り言ちた。

 部屋の灯りを消してベッドにもぐりこむ。

 この療養所に来てもうすぐ一年

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短編小説「思い出を盗んで」その8 終章「思い出を盗んで」

短編小説「思い出を盗んで」その8 終章「思い出を盗んで」

終章「思い出を盗んで」
 目を覚ますと、私は自分の部屋のベッドの中で横たわっていた。頭がぼんやりして夢を見ているようだった。しばらくして水の中から一気に顔を出した感覚がした。五感が再び動き出した。

 部屋の明るさから昼近くになっていることに気づいた。時計を見ると十一時を回っている。

 私は急いで階下へ降りて躊躇なく彼の部屋のドアを開けた。

 何もない部屋の様子に私は呆然と立ち尽くした。昨夜床

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