その先にあるもの 第2話(小説)
夏になった。
この国の夏は短い。
この短い夏に今を盛りとばかりに植物は花を咲かせ輝き出す。一年の中で最も生命力に溢れた眩しい季節の始まりだ。
トオルはお父さんの体調が良くないらしく、学校に来なくなっていた。
一度父と一緒にお見舞いに行ったら、おじさんは笑って言った。
「風を拗らせてしまってね。」
「もう若くないんだから、無理はするんじゃないよ。」
父はそう言って、お土産のお菓子を渡した。
父がこの間街で調達してきた貴重なお菓子である。のぞみはお菓子を視線で追ってしまっていた様で、おじさんは「のぞみちゃんも一緒に食べよう。」と誘ってくれた。おじさんありがとうである。
「おじさん。トオルは?」
のぞみはお菓子を頬張りながら聞いた。
「トオルは私の代わりに仕事に行っているよ。仕事は待ってはくれないし、あの子にも色々任せられるようになって来たからね。」
おじさんはそう言って笑った。
おじさんは小さな工場を持っていて、自動車や自転車なんかを修理したりしている。
「この間トオル君に会ったけど、随分と大人になったねえ。」
父が関心したように言う。
なんだろう、のぞみへの当て擦りじゃないかなと邪心してしまう。のぞみばかりが脛齧りだ。
でも、とのぞみは思う。
おじさんはここ数年、ずっと風邪を拗らせたと言い続けている。そしてなんだか小さくなった。
昔はがっしりしていてもっと大きかった。のぞみが大きくなったからそう感じるだけではないはずだ。
トオルはおじさんの体調が優れなくなってからずっと頑張っていた。仕事を手伝いながら、時間を作って学校にもちゃんと来ていた。でも、今は学校にすら来れていないし、休みに連れて行ってくれると言っていたいい場所もまだ連れて行ってもらっていない。
「思ったよりも元気そうで安心したよ。」
「また来るよ。ゆっくり養生してくれ。」
「おう。ありがとう。頑張るよ。」
のぞみ達はおじさんに別れを告げ、家を出た。
のぞみは帰りに父とは別行動でトオルの働いているであろう工場へ立ち寄った。
工場はトオルの家から少し離れた坂の下の商店街のはずれにあり、機械音や物を叩く音で溢れ返っていた。
そっと覗き込んでみる。
トオルは大人に混じって油で汚れた繋ぎを着て座り込み、バールでネジを回していた。
額に流れる汗を前腕で拭っては真剣に仕事をする姿を見て、トオルが凄く遠い所へ行ってしまったような気がした。
そこにはのぞみの知らないトオルがいた。
声をかけるのも憚られて、のぞみは一人元きた道を辿って帰った。
蝉の声がやけに耳に残った。
その日の夜、トオルが家を訪ねてきた。
「よっ。久しぶり。」
変わらない陽気な声になんだか胸が温かくなった。
「今日親父の見舞いに来てくれたんだってな。」
「うん。」
「ありがとうな。」
トオルはそう言ってのぞみの頭をポンポンと叩いた。
「学校はもう来ないの?」
一番気になっていた事をきいた。
「もう行かない。親父の仕事引き継ぐ事にしたから。」
「そっか。」
トオルは少し間を空けてから
「ごめんな。」
と言った。
「何が?」
「学校、一緒にいてやれなくて。のぞみを一人にしちまった。」
のぞみはトオルをマジマジと見つめてしまう。
自分こそ大変だろうにのぞみを気遣ってくれる。昼間遠くに感じたトオルが近くに戻ってきた気がして、のぞみの胸がふんわりと温かくなる。
淋しかった。それは間違いないけれど、今目の前のトオルを見ていたらそんな気持ちは吹き飛んでいた。
「今週の日曜、暇?」
「暇だけど?」
「前に言ってたいい所、今度こそ連れて行ってやるよ。」
「本当?やった。」
「随分待たせたな。」
トオルはのぞみのおでこに手を伸ばして、前髪をくしゃくしゃっとした。ちょっとセットが乱れるじゃん。
そして待ちに待った日曜日。
その日は朝から晴れて汗ばむ陽気だった。トオルのお母さん手作りのお弁当とキンキンに凍らせたペットボトルを数本持って、のぞみ達は自転車を飛ばして目的地へ向かう。
「ねえ、これから向かう所ってどんな所?」
「秘密。着いてからのお楽しみ。」
「ケチ。」
「ねえ、遠い?」
「まあ、そこそこ?」
「何それ。分かんないよ。」
お喋りしながら自転車を漕ぐ事小一時間。さっきからずっと上り坂が続いている。
いい加減疲れてのぞみは声を上げた。
「ちょっとギブー。ギブアップ。」
前を軽快に走っていたトオルが止まって後ろを振り返る。
「しょうがねえなあ。後ちょっとだけど、休憩するか。」
木陰のある道の端に自転車を止めてトオルは地べたに座り込んだ。
のぞみもそれに倣う。
トオルは徐に鞄からペットボトルを取り出すと
「はいよ。」
一本を放り投げてきた。のぞみは慌てて受け取る。ひんやりとしていて気持ちがいい。
中身は丁度いい具合に溶けていた。
爽快な喉ごしに疲れが癒されていく。
トオルは一気に半分程飲み干すと
「疲れたか?ペース早かった?ごめんな。気づかなくて。」
と言った。
「ううん。大丈夫。」
のぞみは笑った。
トオルはいつも優しい。
だからいつだってのぞみはトオルを絶対的に信頼していた。最近はあまり一緒にいれなかったから余計にトオルの存在が嬉しく感じられた。
木陰で暫く涼んで息を整えた後、のぞみ達は出発した。
それから先は道なき道との戦いだった。
二人は舗装されていない、大方を草に覆われたかつては道だったかも知れない道を行く。
「本当にこの道であってるの?」
「大丈夫。もう少し。」
自信を持ってトオルが言うからのぞみはそれを信じる。小さい頃からずっとそう。トオルの言う言葉にはいつも自信が伴っていた。そんなトオルをのぞみはいつも羨ましく思っていた。
鬱蒼とした草と木に覆われた道を抜けると河原が広がっていた。そしてその川の向こう岸には一面の花畑が。
「わあー。綺麗。」
思わず感嘆の声が漏れた。
「凄い。良く見つけたね。」
「まあな。」
トオルは得意気に笑った。
もっと子供だった頃、トオルを始め集落の子供達で集まっては近所を探検して回っていた。
他の集落の人達に会えるかも知れないと、のぞみ達は使命を帯びた小さな探検隊だった。
子供の足で行ける先には限界があって、集落の外の人に会った事は無かったけれど。
そしてここまで遠くまでは来た事がなかった。
トオルはまだ探検を続けていたのだろうか。
「向こう岸へ渡れるんだ。こっち。」
トオルが自転車にまたがる。
のぞみもそれに続いた。
自転車を降りて視線を上げると、遠くから見えた紫色はその芳しい香りと共に目の前に現れた。
ラベンダーだ。ここまで規模の大きな花畑は見たことがない。
「行こう。」
トオルが手を差し出した。
のぞみはその手を掴んだ。
こんな風に手を繋いだのはいつぶりだろう。昔は当たり前のように手を繋いでいたけど、久しぶりに繋いだトオルの手は大きくて、熱くて、少し気恥ずかしい。
トオルの背中がとても大きくて、頼もしく感じた。
トオルはいつものぞみの先を行く。
こんなの、かっこいいじゃん。
ラベンダーの香りが鼻腔をくすぐる。その間を縫って進んだ先に、ピクニックに丁度良い感じの大きな木があった。
その下にシートを広げてのぞみ達はお弁当を広げた。
風がラベンダーの香りを運んで来て清々しい。
「この景色、のぞみに見せたかったんだ。」
おにぎり片手にトオルは言った。
「ありがとう。嬉しい。」
どちらからともなく笑顔になる。
「またいい所見つけて、連れて来てやるよ。」
「うん。」
のぞみもおばさんの握ったおにぎりを頬張った。
トオルがふと真顔になって
「なあのぞみ。のぞみは将来どうしたい?」
と聞くからのぞみは戸惑った。
「まだ、わからないよ。」
それは近い将来必ず訪れる問題だった。
「俺は親父の後を継いでやって行く。皆の役に立つ仕事だしな。この集落で生きて行く。」
「うん。」
「まあ、のぞみは焦んなくてもいいんじゃないか?」
トオルはそう言って笑ったけど、トオルは子供の頃小さな探検隊の隊長だった。
きっと誰より外の世界に憧れていたはずだ。この場所を見つけたのもその延長線上のような気がした。
でもトオルは大人にならざるを得なかった。
選択できる未来がそう多くはないことものぞみは知っていた。
ラベンダーを眺めながら大人への入り口、そして子供で居られる最後の夏をのぞみ達は過ごした。
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