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頑張らない勇気

自分で言うのも何だが、学生時代の私は誰よりも頑張り屋だった。 

【小学生】
 毎週末に出される宿題。「好きなことを調べて書く」というもので、ノート10ページを目標に、毎週調べ物をして書いた。

【中学生】 
 はじめの定期テストで5教科498点をとり、学年1位。定期テストの度に自作の「勉強ノート」を9教科全て作成し、3年までトップを競い続ける。
 部活では、バスケ部のキャプテンに。(同好会から始まったバスケ部。外練の段階で声を1番出していたので、キャプテンになった。) 
 普段の練習に加え、空いている日は、市の体育館で自主練の日々。練習メニューでダッシュの無い日は、気持ち悪くて、帰って1人でダッシュ練をする。 
 
【高校生】 
 午前の練習後、午後は体育館に残って永遠にシューティング練習。誰もいなくなった体育館で打つシュートに快感を覚える。 
 部活を引退して受験勉強が始まってからは、朝5時半に起きて学校に向かい、塾には23時まで残る生活。 (高校は進学校だったので、朝早くから勉強する人はまあまあいた。)

【大学生】 
 陸上部に入部。初心者ながら1年夏の1ヶ月の距離踏み走では、450kmを超えた。3年次は、幹部として会計に任命。加えて長距離ブロック長も任される。学科は3年が最も忙しい。

 学業では、専門以外の教養単位で、通常16単位のところ28単位取った。→GP学年1位で研究室に配属。GPAは3を超える。
  

改めてみると、自分でもちょっと頭おかしいのでは無いかと思うくらいの頑張りよう。  

何故ここまで私は頑張ってきたのだろう。
親はよく「そんなに勉強したらバカになる」と言って僕の頑張りを止めようとしたのを覚えている。 

さあ、頑張った結果を言おう。 
中学生までは、テストで頑張った分だけ結果に繋がってすごく気持ちよかった。だから更に頑張れた。 部活もバスケ自体は下手くそだったけど、声を出したり元気にやっていれば鬼顧問から評価されていた。

 高校生になると、バスケのレベルはぐっと上がり、スタメンは愚か、ベンチに入ることさえできなかった。けれど腹から声出してめちゃくちゃ応援してた。意外と楽しかった。試合に出られないのは辛かったけど。。。  
 受験勉強は、地獄を見ることになる。こんつめくすぎて、テスト中にパニックになり射精すると言う症状が体に生じたのだ。(詳しくは、「人生最初で最後の顔射」を参照) 
 そこから精神安定剤を飲みながら受験と戦うことになる、、、。
 
 大学では1年の夏の距離走までは順調だったものの、秋に脚を故障し、満足に走れない日々が続く。その後も故障を繰り返しながら、思い切り走れる機会は殆ど無く、大学の陸上生活を終える。   
 幹部になっても、「自分はこうしたい」と言う思いが強すぎて周りのメンバーとオリが合わなくなる。「おまえの頑張りが逆にみんなの敷居を下げる」とメンバーから言われる。 
   
 

 中学生までは「頑張る姿」が評価されていたし、テストでもそれなりに結果が出ていた。だから「自分はすごいんだ!」と高飛車になっていた。 
 高校になっても「頑張れば結果は出る」と信じて疑わなかった。だから目の前のことにはがむしゃらに食らいついていた。けれども、うまくいかないこともあるのだと知る。 

 私はバカだ。高校で「ただがむしゃらにやれば結果が伴うわけでは無い」と分かったのに、 
大学でも何故同じことをするのだろう。脚を故障してからは、部活に行くのが苦痛で仕方なく、鬱鬱とした気分で毎日顔を出していた。  
 

 過去を振り返ると、やはり異常な程頑張っていた私。果たして、この頑張りは無駄だったのか。結論から言うと、無駄とは思わない。逆に今となってはこれが宝だ。 
 それは「あのとき頑張った自分を褒められる!」からではなく、 
「気張らない生き方」を教えてくれた気がするから。 
 社会に出ても、同じように毎日100点を出し続けようとすると必ず折れる日が来る。折れない人も時にはいるがそれは稀にいる異常人だ。 私はそのレアキャラでは無い。
    
そして最大の理由。
 「頑張ってないと、不安になる。」 
僕が頑張っていたのはここにあった。
自分の中にある不安をもみ消すために、「頑張る」と言う行為で自己を正当化し、安心していた。  
それは「結果」を意識しなくても良かった。ただ「頑張る」ことで本来の目的から逃げていた。

 世の中では、色んな人がいて、色んな職業がある。 
「とにかく頑張る」ことも大事だが、一度冷静に立ち止まって「この頑張り方は合っているのか」また、「自分に適正のある分野なのか」を考えることはとても大事だ。 
 自分に適正のある分野であれば、「適度に頑張る」でも、ある程度の結果が出るものだ。やはり「頑張っても結果が出ない」は辛い。

まあ、結果や成果にこだわらなくてもいい仕事も山程ある。そんな仕事をしたっていいじゃ無い。  
まあ理想は、「本人は頑張ってるつもりはないけどなんかやれちゃう。」みたいな仕事につけることだけど。 
 


「頑張らなけれはならない」は誰が決めた?   
そう決めていたのは、紛れもなく自分でした。 


 
人生は、自由に選択できる。  
(中には選択が出来ない人もいると思うので、その点は恵まれていると感じる。だが、選択できない人生が不幸だと決めつけはしない) 

その時々で「頑張る選択」をするのも良し、「頑張らない選択」をするのも良し。 
   

私は学生時代の教訓から、「頑張らない勇気」を学んだ。 
不安を払拭するために頑張るのでは無い。 
求められる成果のために、頑張るのだから。 
長期的にみて、結果を出すためには「頑張らないが吉」と出ることもある。  
その証拠に、私は今走りたい時に走って脚がちょっとでも痛い時は休んでいる。これが功を奏して、今年のマラソンは初出場できそうだし、何より心身が健康的だ。
 

思考を停止し、「ただがむしゃらに頑張る」選択をとるなかれ。 
 
また、「頑張らない」選択をしたことで、周りから批判されたり、不遇な目に遭うかもしらない。 
そう言う状況でも、自分自身を守るために、覚悟して「頑張らない」選択をする。これも一つの「頑張らない勇気」だと思う。

 
けど今、自信を持って言いたいことがある。 
「学生のうちはやっぱり沢山頑張った方がいい!」 
失敗が財産になるからだ。  

あの時頑張った自分。 
その時の方向性は間違っていたかも知れない。  

だが、頑張ってくれてありがとう。 

ちなみに今の私は60点主義である。 

ちなみにちなみに、今回のnoteは頑張りすぎた。





 

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