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エッセイテーマ:大切なもの 「虹色の涙が教えてくれた事」葉桜ことり


真冬の夕暮れは鬱々とした気持ちになる。
それでも、冬は魅力的だ。

マフラーや手袋、ふわふわのコート、もこもこソックス、裏起毛のブーツ。
冬の小物たちは触れると温かく、まるで生きているかのようで安心する。 

間接照明の灯る部屋で外の世界と調和する音楽を流す。

゛ 届かないセレナーデ ゛

ユーミンのせつない歌詞と低い声が冬の澄んだ空気に溶け込み、内省できる。

ちょっと大人のいい女になった気分。

そんな冬の夕方、一本の電話がなった。
゛女の子を助けてほしい。゛

一気に現実世界へと引き戻される。

こんな時間にごめんなさい。と言いつつも、
以前、障がい児の支援をしていたから引き受けてくれるはず。という雰囲気は依頼人からありありと伝わってくる。

聞けば、女の子だけでなく母親の心理的ケアが必要で、いわば、そこがメインだ。
依頼人の説明には、本音と建前が見え隠れしていて、母子に対する愛情よりも厄介さが醸し出されていた。
きっと、この依頼人は誰かに頼まれて動いているんだろう。

何人に断られたんだろう?

依頼人を好きにはなれなかったが、母子には会わずにいられなかった。

母子との初対面は説明よりも遥かに印象が良く、逆に虹色のオーラを放っていた。
(ほらね!やっぱり!)
心は躍った。

通称ゆっちゃん、3歳、女の子はダウン症児で21番目の染色体を一本多く持ってこの世に生を受けた。
染色体異常によるものであるが、異常という響きは実に差別的だ。
一本少ないのではなく、多いのだから、もっと素敵なネーミングがないのか、と考えたりもする。
染色体プレゼンツとか、ハートプラスワンとか。

そして、心臓には小さな穴が空いていて、筋肉や靱帯の緊張が弱い事も原因の一つで3歳にしては著しく発達が遅れていた。
でも、私は発達段階は全然気にしない。
そこに着目しすぎると大切な部分を見逃すから。

母親は障がいを持って生まれた我が子を受け止めきれず、子育ては難を極めている状態だったが、育児放棄や虐待ではない。
自宅訪問してもいないけれども、
゛それはない!゛
と直感的に言い切れた。

我が子への愛情はあるのに、抱えきれない不安で押しつぶされている。

外出するときはゆっちゃんの顔が見えないように隠していた事から、周りの反応に応えられる余裕もないのが痛いほどわかった。

悲壮感の中で、放たれる対照的な虹色のオーラは、未来を予測しているようにも見えた。

ゆっちゃんの幼稚園入園と同時に、私達の物語が始まった。

歩行、食事、排泄、言葉などは赤ちゃん状態のゆっちゃん。
ミルクの匂い、柔らかな髪、おぼろげにみつめる澄んだ瞳。
私の母性が乾くことのない泉のように溢れて止まらなくなった。

ゆっちゃんは、すぐにみんなを虜にした。

しかし、現状は他の園児の動きや段差の多い環境設備ゆえ、目を離すと危険が伴うのは一目瞭然で、ゆっちゃん専任となった私は一瞬たりとも気が抜けない日が続いた。

母子共に繊細な心の持ち主なので、私は優しくゆっくりとした動作を心掛け、口からはシャボン玉を飛ばすようにふわりふわりと緩やかに発し、ゆっちゃんとゆっちゃんママに緊張が伝わらないようにコミュニケーションを図った。

その事を見抜けない上司(見た目が千と千尋の神隠しの湯婆婆にそっくり)が、大きな高い声で見合わない指示を出したり、ゆっちゃんのパーソナルスペースにズカズカと入っては、邪魔をした。

返答する時間と労力が甚だ無駄に思えたのと、私と湯婆婆が言い争う姿などを、もし、二人が見たらどんな気持ちになるだろうか。

私は笑顔で湯婆婆のいうことをまったく聞かない姿勢をとりながら、ゆっちゃんとゆっちゃんママを薔薇色の世界へといざなった。

実は、初日から私はゆっちゃんと心が通じ合えた実感があった。
お互いの好意と安心感がそうさせたのだと思う。
通じ合う事に年齢や立場も関係ないし、言葉なんて話せても話せなくても関係ない。
以前、聴覚障がいがある子どもとの関わりもそうだった。
愛を知れば私たち人間は通じ合える。

不安を和らげるため、数ヶ月は母子通園で、私がゆっちゃんと関わる様子を母親が一秒も見逃さず観察する。
ずっと見られていると、緊張したり、やりにくい面も確かにあると思うが、逆に私は、その緊張感が好きな特異体質で、私の失敗をみてゆっちゃんママに安心してもらいたい気持ちも湧いていた。

私とゆっちゃんがケタケタわらったり、ゆっちゃんが怒ってひっくり返ったり、泣き出したりと、真っ白なキャンパスにカラフルなクレヨンで自由奔放になぐり描きを楽しむような芸術的な表現方法で感情をあらわにする関係性はどこにも嘘がなく、鮮やかだった。

やがてゆっちゃんママも加わり、3人は家族のようになり、狭い空間を飛び出し、冒険を楽しんだ。

他の園児には、「どっちがゆっちゃんのママ?」と聞かれたりもして、ゆっちゃんママが目尻を下げながらニコニコと「どっちかな〜」と答える場面もあった。

そんな私達の周りには、子ども達がたくさん寄ってきて、気がつけば大家族になっていた。

私達は悩みも冗談もすべての言葉と表情が宝物となった。
一生分の贅沢な時間が流れた気がした。

ゆっちゃんとゆっちゃんママの様子をみながら、無理強いせず流れに身を任せていけば、この先、必ずなんとかなる、と自信と確信が
私の心の奥にしっかりあった。

予想通り、
数ヶ月が経つと、ゆっちゃんは歩行、食事がほぼ同年齢と同じ発達になった。

排泄がなかなか整わなかったが、おもらしをしても絶対に否定せず、逆にゆっちゃんママはそれならばと、替えのパンツはより魅力的なものにと、乙女心をくすぐるかわいいパンツをたくさん準備してくれた。
取り替える度にゆっちゃんはお姫様の笑顔になった。

お話しもたくさんできるようになって、ゆっちゃんにも、ママにもたくさんお友達ができた。

一年半が過ぎ、私はあの湯婆婆に呼ばれた。

二人きりの職員室はいやな予感がした。

湯婆婆の真っ赤な唇から黒い吐息が漏れ、威圧的な態度で
「ゆっちゃんとママとは明日から口をきかない事。」
と言われた。

理由を尋ねると、自分を通さずにゆっちゃんママが直接、私に相談しているのが気に入らない。とストレートに言われた。

相談しても、その応え方やゆっちゃんに対する関わり方が自分本位でふさわしくないだけの事で私を攻撃するのは違うでしょうが。

と、腹から思ったが、湯婆婆の鼻息が荒くて言えなかった。

あれこれと口を出すのは得意だが、相手を萎縮させてしまう威圧感があるし、
それでは、相手の本心も何もかも見えない。

これも、やっぱり言えなかった。

いつも誰かをコントロールし、不愉快にさせる事はみんな知っていた。
しかし、暗黙の了解で誰も逆らえる人がいない雰囲気があった。

あぁ、ついにそのターゲットが私の番か。
怒りが湧く中で、なんてかわいそうな人なんだと思えたりもした。

ふと、二人の顔がポッと浮かび、私は覚悟した。

「イヤです。今まで通りに接します。」

湯婆婆は、つーんとした表情をしながら遠くを見ていた。
いやな時間が流れたが、私はひるまなかった。

私が断った事から、湯婆婆はゆっちゃんママを呼び出して私と離れるように申し付けた。
ゆっちゃんママは悲しそうに泣いていた。
案の定、ゆっちゃんはその日を境に園に行くのを拒否するようになった。

人をコントロールする前に貴女は自分自身をコントロールしてくださいな。と心底思った。
それ以来、湯婆婆とは口を利くのをやめた。

ゆっちゃんの登園拒否により、湯婆婆は自ら蒔いた種で居心地を悪くしていた。
本当にお気の毒な人だと思った。

冬にゆっちゃんが入院した。
入院初日の夜、ゆっちゃんが泣きながら私の名前を呼んでいて、ゆっちゃんママから
そう思える人がいる、それが、すごく嬉しかった。とお礼の言葉をもらった。

春になり、ゆっちゃんは年長さんになった。
ゆっちゃんには指しゃぶりの癖があり、
親指の爪がひどく化膿していた。
指しゃぶりをやめさせたいが、指しゃぶりが止まらないのでゆっちゃんママは遠足が近いこともあり悩んでいた。

当日、ゆっちゃんは親指に絆創膏を巻いてきた。
絆創膏が剥がれてばい菌が入るよりも、今日は休ませた方が良いのかも、と悲しそうだった。

私はバスが出る前にゆっちゃんと二人きりの時間をとり、なぜ指しゃぶりをしてはいけないのか説明をして、親指痛いね、早く治るといいね。と二人で小さな親指をじっと見つめながら祈った。
ゆっちゃんは言葉の意味をしっかり理解出来たのだろうか?
それはわからないが、今日はとにかく楽しもう。と遠足中はゆっちゃんを自由にした。

現地ではあえて私はゆっちゃんからは離れて他の園児とたくさん遊んだ。
私といるよりお友達との時間を満喫してほしかった。

あっという間に帰る時間になった。
バスで、ふと、後方の席にいるゆっちゃんを私は探した。

ゆっちゃんと目が合った。 
笑顔だ。

ゆっちゃんが親指をピーンと立てて私に見せるのだ。
絆創膏は朝のままだ。

私はアイコンタクトで
(指しゃぶりしなかったの?すごいね!)
と伝え、両手で大きな丸を作って拍手をした。
ゆっちゃんは自慢気な満面の笑みだった。

言葉はいらない。
そう。
通じ合っている。

夏には二泊三日のキャンプで山中湖にも行った。
たくさん歩いて笑って、うっすらと霧に包まれる中、カヌーにも乗って、みんなで
富士山に向かって「ヤッホー」と叫んだ。
大きなお風呂で背中をゴシゴシと洗い合う姿は幸せそのもので、満たされたゆっちゃんはお友達とベッドで安心して眠りについていた。

ゆっちゃんは幼稚園最後の劇で主役に立候補した。
あの赤ちゃんだったゆっちゃんが、こんなにも成長し、セリフも立ち位置も完璧だった。
劇をやり終えた瞬間のゆっちゃんから虹色の涙がこぼれ落ち、会場は感動に包まれた。 

ゆっちゃん、ありがとう。

ゆっちゃんが卒園するタイミングで私もさよならすることを決めた。

私は湯婆婆に嫌われていたが、孤独ではなかった。
でも、確実に私の心は傷ついていた。

そのタイミングでホスピスの子ども達と過ごさないか?とお誘いがあった。
それからは小さな尊い命にたくさん出会った。

その施設でもゆっちゃんと同じダウン症の子ども達と出会い、その事がきっかけで
医学部小児科学のダウン症研究会を受験した。
今、思うと必要以上に嫌われた傷を癒したかったのかもしれない。

年間20名枠、狭き門で、気が済むまで何度も挑戦しようと思いながら、課題だった提出物の枠をはみ出し、さらには裏面にも愛してやまないゆっちゃんへの想いをつらつらと書き記した。

しばらくすると、同僚達が見送り通知の報告をしあっているのが耳に入った。
あきらかに私より優秀な人で、私は、その優秀な人にアドバイスをもらったりもしていた。
私の見送り通知はどこへ。
だんだんと不安になってきた。

そのうちに分厚い封筒が送られてきて、開けると手続きの書類が入っていて、間違ってないか名前を何度も確認した。
 

ゆっちゃんのおかげだ。

同僚達に伝えると、自分事のように喜んでくれた。
初めて、研究会に出席する日には、一緒に新幹線に乗り、宿泊先まで用意してくれた同僚もいて、旅行のようだった。

研究会では、エリートと呼ばれるに値する方々が大勢いた。
しかし、そのエリート達は、営利目的でない事が実に明確で、語られる言葉には超越した愛が溢れていた。

私のしていた事は間違ってなかった事が次々と証明できて、傷が癒やされていくのを感じた。

全国や海外の良きメンバーと繋がっていくうちに未熟な私ながら、また、目標ができ、次は管理職になって、どんな子どもも一緒に育ち合っていける場所を作りたい。と思うようになった。

希望にメラメラ燃えた私は園長職も経験した。

ゆっちゃんと出会った事で、道がどんどん開かれ、素晴らしい方々と出会えた。

゛助けてほしい。゛
その一本の電話が始まりだった。 

皮肉にもその時の依頼人が私がいまだに口をきかない湯婆婆なのだ。

出会いはいつも突然やってくる。

今は模索中の身で肩書きもなにもない生活をしている。

ゆっちゃんを想うと、心に灯りがともる。

ゆっちゃんと出会った事は一生忘れない。

でも、ゆっちゃんには私の事を忘れてしまうくらいに楽しい時間をいっぱい過ごしてほしいと思う。 
目の前の出来事に一生懸命なゆっちゃんが大好きだったから。

私にとって大切なものは愛かもしれない。

いのちが尽きるその時まで愛することを忘れない人でいたい。


エッセイ「大切なもの」~虹色の涙が教えてくれた事~ 
書き手:葉桜ことり


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