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【短編小説】『東京OL Lifeブログ』を閉鎖します。 富喜ちひろ





今日は皆さんにお知らせがあります。タイトル通り、このブログを閉鎖することにしました。

いやあ……こういうときって、何書いたらいいのか迷っちゃいますね。いつもブログを書くときは、結構すんなり書けちゃうんです。けど、今日ばっかりはPCを前に半日くらい「ああでもない、こうでもない」って液晶とにらめっこしてました。

このブログを始めて4年が経ったみたいです。今日、もう最後だなと思って一番最初の投稿を読み返していました。何が言いたいんだかさっぱり分からない、トイレの落書きみたいな日記でした。コメントもついてなければ、PV数も全然ない。なのにやたら文章が長い。今は投稿の度に結構たくさんの人に見てもらえるようになりましたけど、始めはこんなんだったわけですね。

でも、思ったんです。ああ、私らしいなって。このぼんやりとした記事が、そのまま私自身を表しているんです。どこに行きたいのか目的地も決めないまま、闇雲に前にだけ進もうとする。そういう人間。

そんなんだから、今回のことにもなったんだと思います。

今日はこの記事が最後だということもありますし、何があってブログを辞めることになったのか少し話させてください。明日の朝にでもなったら、サイトごと消してしまおうと思います。今、幸運にもこの記事を読んでいる方は少し長くなりますが、どうぞ最後まで読んでください。少しだけ、あなたのためにもなると思います。



このブログを始めた4年前は、東京で社会人として仕事を始めた時期でもありました。最初はなんてことの無い雑記ブログを書いていました。まあ、今も同じようなものですね。ネットの中には、立ち上げてから数か月間しか投稿がないまま放置されているブログが死ぬほどあるんですよ。そのうちの一つに、このブログもなるんだろうなって始めは思ってました。けどそんな自分の予想とは違って、私はブログを書くことをやめませんでした。

変に生真面目なこの性格のせいもありますが、書きたいことがたくさんあったからです。都会でひとり暮らしをしている女の日記。ありふれてます。けどありふれた日常も、蓋を開ければ様々な困難や幸福が蠢いているものです。



私は西日本にある地方都市で生まれ、物心着いたころには母親と二人暮らしでした。シングルマザーというと今や何もめずらしくないですが、その家の中にある困窮は、その家庭ごとに奥が深いものだと思います。

うちは当たり前のようにとても貧乏でした。高卒で資格も持っていない母は、小さな会社の事務をしながら、時々工場で夜勤もしていました。今だから分かりますけど、多分そんなに働いても年収は300万円に届かない位だったと思います。

子どもながらに、自分のために身を粉にして働いている母へ薄っすらとした申し訳なさがありました。だから、とにかく私は勉強を頑張りました。ゲームが無くても、友達と買い物に行けなくても、勉強していれば何とかなるってそんな気持ちになれました。

私は部活に入ったことがありません。中学に入学した時、学校は部活に入ることを当然のように勧めてきました。けど、多くの部活は年間で数万円単位のお金が必要になります。うちにそんな余裕はありませんでした。ですが、小学校から一緒だった同級生の中には、うちと同じくらいの生活レベルでも部活をやっている子たちがたくさんいました。

変だな、と思いました。お遊び程度に部活なんかやったって、その分のお金を回収できる訳じゃないのに。最高に親不孝だなって。

そうして私は勉強ばかりの学生生活を経て、MARCHのうち一つの大学に合格します。上京する生活費はもちろんすべて奨学金です。けど、学費は母が出してくれました。母は大いに喜んでくれて、私も安心しました。でも、やっぱりどこか申し訳ない気持ちがありました。大学を卒業したら、多少なりとも名の知れた会社に入って稼ごう。そうしたら母にも楽をさせて、自分もスタバやゴンチャに行って、好きなだけ化粧品も買おう。そう思っていました。

けど、そうも上手くは行かないものですね。やっぱり、始めから良い家に生まれる人と、私みたいに苦労して苦労してようやくそういう人たちの足元にたどり着ける人。両者では人生のフォーマットが違うんだと思います。

大学1年生の年末、母が脳動脈瘤破裂で入院しました。私が帰省する予定の前日のことでした。入院することになったその日の朝、めずらしく母から「左目が思うように動かない」とラインがありました。「心配だから早めに病院に行って」と返信しましたが、あのときもっと強く、今すぐ病院に行ってとどうして言えなかったんだろうと思います。

大学での授業中に病院から連絡があり、母が職場で倒れたことを知らされます。命こそ取り止めましたが右半身に麻痺が残り母は『障碍者手帳』を申請できるようになりました。

母は、私の学費を貯金していてくれました。ですが、働けなくなってしまった母の治療費や退院後の生活にびっくりするほどの速さでお金が無くなっていったのです。そして、大学2年生の秋に私は大学を退学することを決めました。

この判断が正しかったのか、今でも分かりません。もちろん母には反対されました。たしかに、どんな手を使ってでも卒業すべきだったのかもしれません。だけど、私はそのとき思っていました。

ああ、やっとこの申し訳ない気持ちから解放される。

「私」という存在のためにがむしゃらに働いていた母。それに答えようと、貪るように勉強した私。

これで、そんな日々から解放される。

あんなに勉強を頑張って、やっとの思いで入った大学だったのに。退学手続きをする自分の胸は不思議と躍っていました。退学手続き自体は非常に事務的なもので、退学届を提出したところで、誰から何を言われることもありませんでした。

退学すると、どこにでも飛んでいけそうな気持ちになったのを覚えています。母は、いつもできる限りのことをしてくれました。その力強さと暖かさが弱まったとき、何とも言えない安堵を私は感じていました。

私は都内で職探しを始めます。地元に戻ることも考えました。お金のことだけを考えればそれが妥当です。けど初めて自由を感じている自分が確かにいて、もう少しだけ頑張ってみたかった。圧倒的な金額を稼いでみたかった。そのためには、東京でチャンスの尾を探し続ける必要がありました。

このブログを書くようになったのもちょうどこの頃です。大学を辞め、東京で仕事を探している自分。明日すらも上手く描けないなか、なんてことのない日常を切り取って発信することで満足していました。

そうして2ヶ月ほど職探しをし、出会ったのが今の会社でした。不動産投資事業を営み、設立5年のベンチャー企業。HPに書いていた採用情報の文言は『未経験者歓迎』『実力主義』『フレックス制度あり』。

今思い返せば、いかにもだなって思います。人の出入りの激しい会社は、大体こうやって大げさに間口を広げるものです。

けど、私はその会社を選びました。理由は単純で、給料がよかったからです。大学の元同期たちは、卒業後は大手企業に勤めるようになるでしょう。多少しんどくても、それに負けないくらい稼ぎたい。くだらないようですが、当時の私には切実な思いでした。

そして私は、その不動産投資会社で働き始めます。私の仕事は、単身者向けのマンションを投資向けに営業販売すること。主な対象物件は、首都圏にある1Rマンションでした。これを売った分だけ、私にもインセンティブが入ります。購入者はその物件に自らが住むわけではなく、物件を購入することで家賃という不労所得を得られる。そういった目的で売られる物件です。

実際に働き始めてみると、業界未経験である私に指導役がつくことはありませんでした。指導らしいものと言えば、A4ファイルにまとめられたマニュアルの小冊子を初日に渡された程度。話しかけられる雰囲気のある人もおらず、毎日深夜0時頃までほとんどの社員が残っていました。典型的なブラック企業だと思います。

働いて1ヶ月経ったころ、2人の社員が辞めていきました。その後も働き続けるなかで、毎月退職者と入職者が入れ替わっていきました。今時にないような厳しい社風のせいだったように思います。「とりあえず売れればいい」という風潮。売れれば正義、売れなければ悪。分かりやすい二元論。このくらい分かりやすい答えが提示されている方が、勉強以外の正義を知らない私にはちょうどよく感じました。私は狂ったように仕事に打ち込みました。

営業の対象は不動産投資に興味のある個人です。不動産に投資する人がどんな人種なのか、私はこの仕事を初めて知りました。数千万単位の買い物をする人。それは縁もゆかりもないようなお金持ち、ではありません。それは、極めて平均的な『普通の人』たちでした。

では、どうしてこういった普通の人たちが数千万円の買い物をするのか?始めはよくわかりませんでした。

それに私は、自分が扱う不動産の投資価値もあまり理解していませんでした。物件購入のための元手さえ用意できれば、あとは家賃収入がある。しばらくすれば、自分の懐に利益が入ってくるものだろう。当然のようにそう思っていました。

そうして私は、休みなく人の集まる所へ行き、営業を繰り返します。大学の先輩、ファイナンスのセミナー、婚活パーティ、ボランティアサークル……あらゆるところに行きました。

投資と言いながらも、数千万円の買い物です。もちろん、簡単に買い手は見つかりません。始めは無我夢中で、手あたり次第に声を掛けました。全然結果がでなくて、毎日何かに追われているようでした。けど少しだけ欲の深い『普通の人』は必ず隠れているものです。たくさんの人に声をかけると、こんな新人の私でも何人か興味を持ってくれる人がいました。

旧帝大卒のエリートサラリーマン、医者のパワーカップル、貯金を溜め込んだ教師、田舎から出てきた看護師。いろいろな人が私の顧客になっていきます。

私はまるで自分自身の立ち行かない人生の恨みを晴らすかのように、執拗に努力を重ねました。何より、母と自分のために良い生活がしたかった。言ってしまえば、それだけのことです。

営業の方法について、会社にはマニュアルが用意されていました。私が不動産や投資の知識が無いなかで、この仕事ができたのもそのマニュアルが用意されていたからです。初めて契約を取れた日のことを今でもよく覚えています。中野から徒歩12分の1Rマンション。相手はビジネス系のオンラインサロンで知り合った、まじめそうな公務員の男性でした。

その部屋を内覧しに行ったとき、共用部分の廊下にはそれぞれのドアの前に傘や私物の靴、段ボール等が雑然と置かれていました。等間隔に並んだ同じドア。その中で、コピーアンドペーストされたように並ぶ同じ形の部屋。1人分の荷物すら入りきらない都会のこの小部屋。廊下に溢れた生活の一片からは、貧しさと孤独の匂いがしました。

ありふれた、生々しい生活とその中にある困窮。まるで、私の幼少期と地続きのようでした。

早くこの困窮から抜け出さなくては。そんなことを考えながらマニュアル通りに行った契約は、あっけないほどに上手くいきました。そして、このことを皮切りに私はいくつもの物件を売却することに成功します。

不動産投資で不労所得を得ようとする私の顧客は、誰しも大きな欲を抱えていました。ですが、一番の欲の塊はいつも私でした。自分の人生に流れる暗く湿った臭いを、拭いきれない貧しさを、消し去りたくて必死だったのです。

そうして4年が経った今。去年から私は営業部長補佐として役職を任されるようになりました。その役職にも慣れ始めた矢先です。

会社が行政処分を受けることになったのです。社内は騒然となり、始めは何が起きているのか理解できませんでした。

行政処分の対象となったのは、物件契約時に行なっていた住宅ローンの不正利用。

通常、住宅ローンは自分が住むための住宅購入資金として融資が通るものです。私が営業していたような、投資目的の物件を購入する資金に充てることはできません。ですが、私の会社では『住居用』と嘘の申告をして購入者に融資を受けさせていました。住宅ローンは融資が通り易いんです。

うちの会社の顧客はみんな、不動産の素人です。それを利用して、うちの会社では相場より倍近い高値を物件につけて買わせていました。不正をしてまでも融資を通そうとしていたのは、これが原因です。

融資が通っても、相場よりずっと高値で買った物件です。見合うほどの家賃収入などあるはずがありません。購入者は家賃設定を下げざるを得ず、いつまでたっても収益はマイナスのまま。最終的には、数千万円単位の返済に苦しむことになります。

そう。得をするのは購入者ではなく、私の会社だけです。

どうして購入者達は、圧倒的に損な物件を買ってしまうのでしょうか。私の見てきた『普通の人たち』は物件の価値を正確には理解していなかったのだと思います。よく注意して話を聞いていれば。契約書を読んでいれば。必ずどこかで、「これはおかしい」と気が付くんじゃないか。そう思う人もいるかもしれませんね。

当たり前ですが全て内容は契約書に記載されています。ですが、専門用語が書き連ねられた契約書を隅から隅まで読む人はそう多く居ないようです。

欲。

とにかくこれのせいです。

特にその傾向が強いのは、一般的には順風満帆な学歴や職歴をもった所謂エリートな人たちでした。そもそも、そういった人たちは不動産投資をしようと思えるだけの多少の稼ぎがあるわけです。優秀で、賢い人たち。

そんな人たちが持つ「ある程度学のある自分が、大きく損な選択をするわけがない」という自信。一度決めた自分の判断を修正しない頑なさ。そんな要素が大きな慢心を育て、自身の頭を鈍らせているように見えました。

欲、無知、慢心。それらが揃うと、人は簡単に道を踏み外します。

ですが、私が働き始めた当初、この方法は一部の不動産投資会社ではよく見られるやり方でした。なぜなら、会社という第三者の勧誘でこのような不正を行ったとしても、物件の購入者が銀行を騙して不正利用をしたという事実に変わりはないからです。購入者が加害者。銀行が被害者です。

そこに私たちの会社が介入していたとしても、大きく取り沙汰されるものではなかったのです。ですが、この住宅ローンの不正利用による被害が増大。悪質性が高いと判断された会社数件が行政処分を喰らったということになります。その一つが、言うまでもなく私の会社です。

ちょっとした「お金が欲しい」という欲によって、数千万円の負債を抱えることになった購入者はうちの会社だけでも300人以上になるそうです。減る事のない負債。返す見通しのつかない借金を抱えたらどうするか。それは自己破産という、社会的な死です。

音もなく静かに社会的な息の根を絶っていった人が、いったい何人になるでしょうか。明日、行政からのヒアリングがあります。そのときに、被害の全貌が明らかになるはずです。

そして、社会的信用が失墜した私の会社はまもなく再起不能となるでしょう。

働き口がなくなるのも、もう時間の問題です。自分と母のために頑張った結果、一体何人の人を地獄に落としてしまったんだろうと思います。けど、私はどうしたらよかったのでしょうか。

なんだか疲れました。

頑張っても頑張っても、全てが砂のように手の平から零れ落ちていきます。もう少ししたら会社は潰れ、私はOLでもなくなるでしょう。これをきっかけに、こんなぼんやりとしたブログも辞めてしまおうと思ったのが今日の話。そうして思い立って、こんなブログ記事を書いています。今後はまた、無職からのスタート。本当に骨が折れます。

でも私、一つだけ分かったことがあるんです。失敗は成功のもとだと言うことです。

今回、行政から指摘を受けることになるのは、契約上数点です。そこを失敗とし、改めれば良い。そんなふうに思ってしまいました。

もう一度、私は自分の手で不動産を売ってみたいと思っています。どれだけうちの会社のせいで人生を棒に振った人がいても、話題になるのは一瞬。すぐに風化していく。そして、欲深い人間はいつでも街にうろついていることを私は知っています。

私は必ずこの人生という勝負に勝ちたいと思っています。母のために、自分のために。

真剣に書いていたら、あっという間に夜も深まってきました。そろそろ、おしまいにしたいと思います。

いつかどこかでこのブログを読んでくれているあなたに会ってみたいです。私はブログで顔出しもしていないですから、会えるなんてことがあるとは思いませんが。けど、もしかしたら、どこかで会えるかもしれませんね。

その時はどうか、私から逃げてください。お願いします。

2023-11-21 0:26:59

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