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異性装の魔力

noteへの最後の投稿から1年2ヶ月以上経ってしまいました。
この1年で私はより自由に正直になれたと思います。

過去の自分の記事を読み直してみると、基本的にアートか科学のことしか書いてないですね。
確かにアートと科学は楽しい。相反する活動のようで混ざり合う領域もあり、興味に事欠きません。

今回も広く括れば「アート」かもしれません。


私は男性として生まれ、男性として振る舞い、女性を好きになり、時には交際したりしてきました。
ですので分類としてはシスジェンダーのヘテロセクシュアルと言えます。

一方で、昔から私の琴線を刺激してきた概念に「異性装」があります。
生まれ持った性別を乗り越える装いには、一種の魔力があると思うのです。

どうやら日本では古くから用いられてきた概念のようで、古事記には小碓命(後のヤマトタケル)が髪を下ろした女性の格好で敵地に侵入し、気を緩めた熊襲兄弟を討伐するエピソードがあります。
それとは逆に、女性に生まれながら男装で出陣する旨を群臣に告げ甲冑姿で戦地に赴く神功皇后の姿もまた、古事記や日本書紀に記されています。

出雲阿国から始まるとされる歌舞伎も、女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎という変遷を辿ったようですが、いずれも生まれ持った性別を超える装いが取り入れられています。

旧約聖書 申命記 第22章5節に「女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。」とあることから、西洋との根源的な文化・感性の違いを読み取れます。

明治時代、西洋化の流れにあった日本では違式詿違条例とやらによって女装・男装ともに刑罰の対象だった時期があります。
明治15年にこれら異性装を禁じる法令が無くなった後も、今日まで続く異性装者や同性愛者に対する差別意識が一部の人達の中で払拭されていない事実を、私はとても残念に思います。


時は移ろい現代。
思い返せば中学~高校(2010年前後)の頃の私はヴィジュアル系バンドが好きで、その中性的で場合によっては性別を超越した出で立ちに惹かれていました。

お2人とも性別を超越してらっしゃる。
この「男性でもあり女性でもある」という性質は何か得も知れぬパワーを秘めている気がします。
個人的に全く詳しく無いですが、宝塚歌劇団の男役の方々にも広く括れば同質のパワーがあるのかもしれません。

性差を超えようとする営みによる美の発露。

きっと、美しさを求める姿勢に生まれ持った性別は関係無いのでしょう。
先に述べた古事記や日本書紀の例は美しさの探究とは少し異なると思いますが、この「性差を超えようとする営み」は古くからDNAに刻まれている感性の一つであると思います。

このような背景から、いつ発現してもおかしくない綱渡り状態だったのかもしれませんけれども、昨年ちょっとしたキッカケで私自身と異性装の距離感に少し変化が起きました。

ということで時間が取れれば、今後は私自身と異性装の距離感について書こうかなと思っています。

では。

【参考】
装いの力-異性装の日本史 図録 / 渋谷区立松濤美術館 

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