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忘れない

あの日ぼくはまだ布団の中にいた。
大きな揺れを感じながらまだ朝の5時すぎだぞ、
もっと寝かしてくれよ、寝言で文句を言った。

大好きな大阪のおじちゃんが亡くなった。
高校2年時ともに過ごしたクラスメイトが亡くなった。

あの時きみは農協ではたらくお父さんを自慢して農業の未来を語っていたね。
ぼくはご免だったよ、農業のよさなんてこれっぽっちも知らなかったから。

ぼくはこの地に来て思うんだ。
きみの語りたかった未来はこういうことだったのかってね。

ぼくは毎年きみのお墓参りをした。
時には人を集めて大勢でおしかけたりもした。
だんだん気にする人もいなくなって、最後はぼく一人でお参りした。

そんなぼくもここに来てからはもう墓参りはできていない。
それでもぼくは思い出すんだ。
あの時のきみと過ごしたあの日々を。

絶対に忘れちゃいないんだ。
そこんとこ、きみにちゃんと知っていてほしい。
きみを想った気持ちは風化なんてしないんだよ。

忘れない

インスタントフィクションとは自由な発想と気軽なノリで書かれた文章、読書しない人でも遊び感覚で挑戦する。原稿用紙1枚=400字の中で表現、自分の思う「面白い」を入れるのがルール。

youtubeピース又吉直樹「渦」より

1月17日は毎年阪神淡路大震災のことを思い出す。
1日前に投稿するのが「忘れていない」ことを強調したい証拠。

今年は元日から能登半島地震が発生し、2週間を経過してもなおまだまだ落ち着く様子はない。それだけ被害は甚大だ。

自粛ムードをいつまで継続すべきか、いつどのような形で被災地支援に関わるか、いろんな思いがそれぞれにあるだろう。

私は「忘れない」ことも一つの気持ちの形だと思っている。

私事で恐縮ではあるが、ちょっと前にこんな出来事があった。
昨年の11月上旬のことだ。
うちの両親が遠路はるばる遊びにやってきた。
両親がこの地に足を踏み入れるのは2度目。
北国にはまったく縁もなく、同じ日本でありながら、私がこちらに嫁ぐまでほとんど興味もなく情報を見ても我関せずと流していたと思われる。

そんな娘があの東日本大震災を経験した。
実際、私の住む地域にはほとんど被害はなかったのだが、地理的なことも把握できていない地元の人たちは両親を含めてみんな私が被災したと大騒ぎになったらしい。
特に母にとっては生きた心地がせず、毎日TVで情報を見ては涙して、ひどくショック状態にあったと聞いた。

あれから13年も経過した昨年、母はいたるところで、こちらの人に声をかけていた。

「申し訳ありません。私、あの時、何もできませんでした。大変でしたね」

言われたこっちの方が「へ?なんのこと?」と思うほどだった。

それでも母はずーっと心の中に思っていたのだろう。被災地を思い、被災者の心に寄り添いたかったのだろう。
それを全然形にできず、ただ思っていただけかもしれない。
それでも13年後にこちらに来て、思いのたけを伝えたかったのだろう。

私はそんな母に感動し、誇りに思った。
素直にその言葉を言えることが、素晴らしいと思った。

私もいつか能登半島を訪れることがあるかもしれない。
ほかにも過去数年間で「激甚災害」に指定された地域は多くある。地震だけでなく台風や豪雨も多い。

現地に住んでいない私にできることは、今の気持ちを風化させずに、忘れないことではないかと思う今日この頃。

<1年前の”ほのぼの日記”> 

あーこれね、私と親友の10年越しの友情復活の話。
私てきには、この復活劇の裏にnoteの存在が大きく影響していると思う。
noteに親友への懺悔の気持ちを投稿しなければ、私は昨年のこの日を迎えられなかったと思う。note様、感謝します!


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