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【思 い 出 の 樹】


 
止まったままの置き時計よ、さようなら。
パンを焼かないトースターよ、さようなら。
音の鳴らないギターよ、さようなら。
どうかゆっくりとお休み、思い出の樹のそばで。
とびきり赤い夕陽に包まれながら。
 

でも…、その前にもう一度だけ、時間を後戻りさせたい。
そして尋ねてみたい。
君たちの、もうひとつの思い出の場所まで。
そこが遠い国なら、なおのこと。
 

君たちが、産声を上げた見知らぬ町。
君たちを作ってくれた工場。
君たちを運んでくれた、船や鉄道やトラック。
君たちを、販売してくれた商店。
そのほか大勢の関係者にも、励ましと感謝の気持ちを伝えよう。
君たちが、どれほど大切な存在だったかを、皆に知ってほしいから。
 

君たちと出会えた事は、ただの偶然じゃない。
思い出を振り返るたび、深い愛着を感じる。
今まで沢山の思い出をありがとう。
できる事なら、出会った頃の姿に戻してあげたかった。
明日から僕は、異郷の地へ旅立って行く…。
それなのに準備がはかどらないのは、君たちのせいかもしれないね。
一緒に連れて行けないのが、本当は心残りでならない。
 

人は誰でも大切な何かと、お別れをしなければならない時がある。
自分には、それを治したり元に戻したり出来る力は無いけれど
せめて『ありがとう』の言葉をかけてあげよう。
心の底から、ねぎらってさしあげよう。
そっと丁寧に汚れをぬぐって、両手でしっかり包み込む。
それから思い出の樹のそばで、子守歌を聴かせてあげよう。
それぞれの生まれ故郷へ、いつでも笑顔で帰っていけるように。
 

思い出を大切にできる人は、きっとこんなふうに素直に
誰に対しても同様の態度となって、あらわれる。
それはまた、万物自然を愛する心にも通じるのだと思う。
人の親切や、励ましや、思い出を大切にできる心。
素直で、善良で、人を恨むことを知らない心。
そんな心を僕は持ちたい。
 

ねえ、思い出の樹よ—。
何百年も昔から、風雪に耐えてきた思い出の樹よ—。
どれほど多くの人々を、優しく見守ってきたことだろう。
いつの日か僕も、そんなふうに微笑みながら
休める時が来るといい。
夢をあきらめず、世の中に貢献できる人生を歩めたなら
それが僕の本望だから。
                        建礼門 葵



♬BGM1曲目『エデンの東』/ビクター・ヤング楽団
♬BGM2曲目『ミスターロンリー』/レターメン
♬BGM3曲目『哀しみのソレアード』/ミレイユ・マチュー


♬エデンの東(1955年アメリカ映画)



♬ミスターロンリー
 


♬哀しみのソレアード



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