限りあるから、価値がある
2018/4/17 はてなブログ自記事より
こんにちは。あすぺるがーるです。
今回は、以前に読書感想文を書いた、『泡沫少女とイデアの青年』を読んで考えたことを書いていこうと思います。
読書感想文はこちら
読者投稿について
以前、メンヘラ.jpの方に私の読者投稿を掲載していただきました。
これ実は、前々回のブログで読書感想文を書いた、『泡沫少女とイデアの青年』を読んで思ったことの一部をまとめたものです。
これ以外にも読んでみて考えたことがたくさんあるのですが、読者投稿に書こうとするとテーマが定まらなくて読みづらくなってしまうので、読者投稿は「もしも感情がなくなってしまったら」というテーマに絞って書かせていただきました。
『泡沫少女とイデアの青年』では、全ての人が永遠の命を持つようになった=不老不死になった世界が描かれています。
この「感情が無くなる」というのも、永遠の命を持つようになった世界で起こったことの一つです。
不老不死への憧れは古代から存在し続けますが、そもそも、不老不死になったら幸せになれるのでしょうか?
その問いに関する答えを、『泡沫少女とイデアの青年』を書いてあることを元に探していこうと思います。
※ここからの分析には結末バレはありませんが、物語の核心となる情報を含みます
永遠の世界で起こったこと
「イデアの青年」の世界から「林檎売りの泡沫少女」の世界に移行する間に、イルを除く全ての人間が永遠の命を持つようになったことで、以下のことが起こりました。
社会を動かす原動力がなくなる
先ほど言ったように、全ての人が永遠の命を持つようになった世界=永遠の世界では、人々から感情が失われました。
生存を脅かされることのなくなった永遠の命には、生存維持のために必要とされていた感覚や感情、機能が必要なくなり、やがてそれを失っていく(P.14)
その結果、人と人とのかかわりや意欲も失われました。
永遠の街に“繋がり”は必要のないものだからね。ここでは互いの名を呼びあうことなんてしない。だから、いつの日か名前なんてものも必要なくなったんだろうさ(P.54)
街の人々が笑顔で催しを楽しみ、家族や友人を引き連れて高揚感を共有するなどといった様子は一切見受けられない。それはまるで、何者かがこの街を箱庭として、意思のない人形たちを徒に配置し、気まぐれに動かしているかのようで──そこに、街の人の意思など存在していないのだ。(P.153)
メンヘラ.jpの記事の方にも書いたのですが、このような状態になると、あらゆる職業やサービスが無くなります。
市と言っても、永遠の民は食事を摂らなくても生きていけるし、娯楽に使う時間ほどつまらない時間はないってくらいに長く生きてたからね。今や物の売り買いなんてほぼ機能してないんだ(P.55)
放っておくと誰も何もしない状態が生まれるのです。
ルールでがんじがらめに
全ての人々から意思が消えた、放っておくと誰も何もしない世界が社会として機能しないのは、想像に難くないでしょう。
これもメンヘラ.jpの記事の繰り返しになりますが、意欲のない人々ばかりの世界を統制するためには、大量のルールが必要となります。
「そう、“きまり”。“教会”が定めた戒律のことだよ。僕らは教会から永遠の命を保障されている代わりに、戒律に従わなければならない。いろいろな戒律があるけど、それは『永遠の存在であっても、人間としての活動を怠ってはならない』という考えの下に定められたものが多い。“仕事”についてもそう。永遠の民全てに義務付けられたことなんだ。僕たちが、人間であるためにね」(P.55)
そして、そのルールから外れた人間は容赦なく攻撃され、誰からも擁護される余地がないのです。
全ての意思が消え去ってしまった以上、ルールだけが唯一絶対の価値観になるからです。
「永遠の民が残った有限の民を殲滅する形で、戦争は収束した。世界が永遠になった後は、戦争は一度も起きていない。以来、有限の民は戦争を引き起こす悪しき民として考えられるようになったんだ」(P.218)
「お願い! やめて! どうして有限の民は呪われているの? どうしてこんな酷いことをするの? どうしてよ‼」高く透き通った、イルの悲痛な叫びが広場に響き渡る。その声に気圧され、周りの叫喚は一瞬止むが、ひとつ、またひとつと怒号が重なっていき、やがて大きなうねりとなる。「『どうして』だと……⁉ そんなの、有限の民なら受けて当然の報いだからだよ!」(P.160)
”戒律”にしろローカルルールにしろ、一度決まってしまったことは、たとえそれが不条理だとしても改められる術はありません。
ルールから外れるなんて非効率なことをさせる、意思そのものが消え去ってしまったのだから。
まさにディストピアですね。
記憶や経験の無意味
そもそも、人はなぜ記憶するのでしょうか?
日常生活において、記憶しておけば確認する手間が減るでしょう。
しかし、記憶の意味は本当にそれだけでしょうか?
離別することや死ぬことで失われていく経験や思い出をとどめておくというのも、記憶の重要な役割ではないでしょうか。
人はね、誰かの記憶の中でも生きることのできる生き物なんだよ(P.166)
『泡沫少女とイデアの青年』の世界には、記憶の象徴である、オグニルという果実があります。
生命が有限の「イデアの少年」の世界と生命が永遠の「泡沫少女」の世界とでは、その扱いが大きく変わっています。
「世界がまだ有限だった頃。この実は“記憶の実”と呼ばれ、人々の記憶を吸って育つと言われていたんだ。そしてその記憶は、大地に宿った新しい命に引き継がれていった。勿論、それを口にした街の人々にも。有限の民にとって記憶とは、とても尊いものだったんだ」そしてその実は、祝祭時にも必ず供物として捧げられる、国の特産品であったこと。人の死を悼むときには、その苗を植え、死者の記憶を宿す役目を負ったこと。──“祝福の実”であると同時に、“死者を悼む実”でもあったこと。(P.217)
「だけど、世界が有限から永遠になると、死者がいなくなったこの世界では、死者を悼む必要がなくなった。やがて、生死という概念自体が意識の中から完全に取り払われると、赤い実は……記憶は、尊いものではなくなった。むしろ、死を忌み嫌う永遠の民にとって、この赤い実こそが、死を連想させる不吉な象徴になってしまったんだ」(P.217)
永遠の命を得て生きる時間が長くなると、個人の記憶の量も莫大になるでしょう。
感情も意欲も失われてしまったため、その莫大な記憶の中に自分のためになるものはないに等しいでしょう。
そんなもの、抱えてるだけでも面倒ですよね。
そして、記憶の源になるのは経験です。
記憶が無意味になった以上、今現在の私たちの経験も無意味になるのです。
それに、どれだけ大きなコストがかかったとしても。
存在意義の消滅
感覚も人間関係も、記憶も経験も無意味化された永遠の世界で、それらを体感することのなくなった個人は何のために存在しているのでしょうか。
何も感じることなく、ただただ生きているだけ。
もはや誰が誰でも同じだし、誰がどうなっても何一つ変わらない。
そんな人生、考えられますか──?
寿命が有限の世界では
それでは、誰も永遠の命を持っていない「イデアの少年」の有限の世界──今の世界は、どのようになっているのでしょうか。
「感じたこと」で社会が動いていく
寿命が有限の世界、つまり今の世界では、何かを感じることは生きるためにとても重要な役割を果たします。
生命を守るために五感があり、限りある時間を有効に使うために時間感覚があります。
「“痛み”は生命にとって、自らの危険を知らせる信号でもあるからね。命が脅かされればそれだけ痛みは強くなり、生命はそれを嫌う。痛みを感じることはまさに、生命が生命を維持するための本能だ。何らかの異常で痛みを感じなくなった生命は、永くは生きられない」(P.145)
より生活しやすくなるために社会があり、人間関係があります。
より自分、そして自分にとって大切な誰かが生きやすくなるために、何かをしたいと欲します。
もちろん、人間関係や欲望が生み出す全てのことがプラスになるわけではないでしょう。
むしろ、それによって争いが起きることもあります。
自分の居場所を守るために、大切な人の居場所を守るために、皆が皆命を賭して、他の誰かの居場所を、他の誰かの大切な人の居場所を奪わねばならない。それ故にこの世界では、生きることがとても難しいのだと思う。(P.341)
とはいえ、それがなくなった世界がどうなるかは、先ほど皆さんがご覧になった通りのことだと思います。
仮に感情や感覚、記憶を保持したまま寿命を永遠にすることができたとしても、それはそれで大変。
「憶えているんだよ、ずっと。忘れることもできずに、何十年も、何百年も、昨日のことのように憶え続けている。──幸せな記憶も、悲しい記憶も」(P.265)
本当にこんなことになったら、いくら身体の寿命が永遠でも、心が死にそうです。
少なくとも私は心が死ぬでしょう。
プラスでもマイナスでも、少しずつであるとはいえ、何かを感じるたびに精神はダメージを受け、ダメージを受けすぎたら壊れます。
身体は不老不死になっても、精神の限界が消えてなくなるわけではないのです…。
存在意義が生まれる
感覚の違いや、記憶・経験の違いがあることによって、個人は他の個人と異なる存在になります。
そして、人間関係があることで、個人は他の個人にとって意味があるものになります。
こうして、生きとし生ける者一人一人に存在意義が生まれるのです。
みんながみんな違うから、みんなに価値があるのです。
──限りあるから、価値がある──
この本の主題は、この一言に尽きると思います。
不幸なくして幸せはない
「イデアの少年」の世界や今の世界では、人の命は有限です。
だから、人は病気になったり怪我をしたりしたらあっけなく死にます。
みんながみんな大切で、自分や自分の大切な誰かが傷つけられたら悲しいし憎らしいので、争いや戦争が繰り返されます。
「お前だって何度も見てきただろう‼ 有限の民の醜さを、浅ましさを! 人が何かを感じるなら、そこに必ず憎しみが生まれる! 悲しみが生まれる! それはさらなる憎しみと悲しみを生む! その負の連鎖の果てを、ともに見てきただろう! (中略) 記憶、感情、意識……有限の民が持つそれら全てが争いの元凶だ! それを捨て去った今のこの世界こそが、幸せな世界なんだ‼」(P.305)
そんな思いが生まれても不思議ではないし、それも真理の一面ではあるのです。
悲しいことながら。
ただ、
「たしかに、有限である人間は、醜い争いを続けるかもしれない。大切な人を失っていくかもしれない。決して完全になれやしない。けれど、僕と兄さんが本当に望んだのは、こんな、憎しみや悲しみだけじゃない──喜びや幸せすらも、何も感じずに永遠に止まったままの世界じゃないはずだ! こんなもの、死んでいるのと同じじゃないか‼‼」(P.305)
これもまた、真理なのです。
不幸のないところに、幸せはありません。
だから生きていくためには、ある程度の不幸は覚悟しなくてはいけません。
とはいえ不幸に耐えすぎて心を壊したら元も子もないので、幸せになれることを見つけて、適度に息抜きしながら生きていきましょう!
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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