見出し画像

【アニメ考察】進撃の巨人という生き様と戦いの物語について

TOKYO MXで2期まで、そして3期からはNHKでと局を跨いで計94話で完結した「進撃の巨人」。
当時一期を見た時の衝撃は10年以上経った今でも鮮明に焼き付いていて、ただあまりにも物語の重みが質量ともにあることからここまで手をつけられなかったこの作品を、Amazonプライムビデオで一気見することが出来た。
そしてあの日の衝撃は間違いじゃなかったのだと、その身に焼き付けるに至ったのだ。

進撃の巨人という物語

進撃の巨人という作品は、そのタイトルが示す通り、巨人がストーリーに大きく関わる物語だ。

主人公であるエレンとその友人であるミカサ、アルミン達は、島にそびえる大きな壁の中で暮らしている。ウォールマリア・ローゼ・シーナ、それら3つの壁は、人類からその脅威となる「巨人」を守るためにある。
島の巨人たちは執拗に人を殺戮するために襲いかかり、壁の外を調査する「調査兵団」もその脅威に多数の死傷者を出す状況だった。
そしてある日、壁の中の平穏は脆くも崩れ去る。
突如現れた超大型巨人と鎧の巨人により、第一の壁であるウォールマリアが破られ、多数の巨人が侵入。それにより、ウォールマリア内では多くの人々が巨人に食われ、エレンの母親もその例外ではなかった。
そうして多くの死者とウォールマリアの壊滅(=巨人の敷地内と化す)に強い憎しみを覚えたエレンは、巨人を駆逐することを決意し、ミカサやアルミンたちと共に「調査兵団」への入団を目指す…。

1話早々から圧倒的な力で人類を脅かす巨人と、憎しみと野心を糧に何度も立ち上がり巨人に挑もうとするエレンの姿は、グロテスクな場面は多いものの王道のバトルアクション物といえるだろう。

ここからはもはや書かれ尽くしているかもしれないが、進撃の巨人を見てない人に向けた「進撃の巨人の魅力」について話していこう。

没入感あるバトルシーン

進撃の巨人という作品では物語の中で幾度となくバトルシーンが描かれる。そして象徴的とも言えるのが「巨人vs人間」の戦いであろう。

進撃の巨人の世界では、巨人の急所であるうなじ付近を確実に仕留めるために、立体機動装置が用いられる。ワイヤーによって建物から建物、はたまた建物から巨人へと俊敏に移動していき、奴らのうなじめがけて超硬質スチールでできたブレードで仕留める。
飛び回り、切り裂く。そのモーションが圧倒的なアニメーションで描かれるのが、進撃の巨人の大きな特徴である。

特に移動時の躍動的な絵はとても没入感がある。時折移動者目線で、または巨人目線に近い位置で、彼らの執念とその一撃は余すことなく描かれる。

これはアニメーションならではの没入体験であり、是非アニメを通して体感してほしい。

恐怖と死を通して描かれる「生き様」

進撃の巨人の世界では、常に死と隣り合わせだ。

巨人との戦闘を行う調査兵団は元より、内地にいる兵団や住民でさえ、いつ襲ってくるかもわからない壁の外の巨人に怯えている。
そして巨人がその猛威を振るう時、非情な程に人の死が待ち受けている。

断言するが、この物語は決して勧善懲悪のヒーロー作品ではない。作中では度し難い程に人が死ぬ。
突如現れる巨人の襲撃で、捨て身の作戦のための犠牲で、何度も、何度も人が死んでいく。

そしてその中で描かれるのが、死を通してのリアルな生き様であるのだ。
ある者は巨人の犠牲になったことが人類の糧になっているかを嘆きながら死に、ある者はただ死への恐怖を叫びながら無惨に死に、ある者は人類の未来を託して巨人に立ち向かい死んでいく。

多くの人々の死を目の前にして、その生き様を目の当たりにすることで、人生を考えさせられるのがこのアニメであろう。

ただし言いたいのは、決して惨めな死に方が間違いで、英雄的死に方が正しいという訳ではない。
誰だって死ぬのは怖いし、それがリアルになった時、後悔が頭を埋め尽くすだろう。どれだけ鍛錬された兵士でも、勇敢な兵士であっても、その様な「当たり前の死に方」をしてしまうのが、非常にリアルであり、残酷であるのだ。

恐怖と死が支配するこの物語の中でこそ、その生き様を通して人生を考えさせられるのだろう。

怒涛の伏線回収

そして、やはり大きくこの物語の魅力と言えるのは長い作品を通しての怒涛の展開と伏線の回収である。

この物語、最初から結末やほぼほぼの筋書きが決まった上で作られてるのがわかるほどに、1話から多くの伏線が散りばめられている。有名なところで言えば1話のタイトルである「二千年後の君へ」であろう。さらに言えば、冒頭の主人公の夢から覚めるシーンでさえ、数多くのこれからのシーンへの伏線が隠されている。

また物語が進むにつれて、巨人の謎や数々の謎が紐解かれていくのだが、その鮮やかな回収も見事である。

私自信、アニメを全話見た後にさらに見直して視聴をしているのだが、見直すほどに物語への理解の深みが増していくのが本当に面白い。
見るほどに深みを増し、物語の面白さをさらに思い知らされるのがこの作品であろう。


…というように、脅威的な力に立ち向かうための人間物語や想いに胸打たれるのが、この「進撃の巨人」という作品なのだ。
未視聴の方は、是非この機会に見ていただきたい。

そしてここから先は、物語のネタバレを含めた感想を書いていく。









人類vs巨人から、人類vs人類、そして巨人vs人類へ

物語冒頭、特に1期や2期の段階ではあくまでもエレンたち人類と脅威である巨人との戦いであった。しかし、アニ扮する女型の巨人との対決から、次第にその縮図は崩れてくる。
知性の持つ巨人の正体が「人間」であったこと、エレンも巨人の力に目覚めたことから、敵である巨人の中にも人間がいるのではないかと疑いは深まっていく。
そしてウトガルド城の戦いで仲間であったユミルが顎の巨人となり、その戦いの後ライナー、ベルトルトも鎧の巨人、超大型巨人と彼らの正体を現していく。
戦いの末、ハンジは壁内の巨人の正体は同じ人間であると推察し、それは的中する。
全ての巨人は海を超えた壁外人類の中でも、壁内人類と同じ血を持つエルディア人が巨人化の薬で変貌した姿であった。
そうして、知性のない無垢の巨人やライナーたち巨人も含め全てが人類であることが明らかになる。

それだけではなく、巨人の進行は、壁外人類の戦争の中でマーレ軍の軍力強化のため壁内に隠れた始祖の巨人の奪還すること、さらに壁内に眠る天然資源を得る狙いがあった。
要するに、壁内への巨人の襲撃は人類vs人類の戦いであり、戦争の一つに過ぎなかったのだ。

私自信、この人類vs人類となったところから、進撃の巨人という作品の面白さはさらに加速したと思っている。
人類とそれを脅かす存在との戦いが実は、意志を持ち、狙いがあり、価値観や出自の違う人間同士の戦いであったのだ。
そしてマーレ軍の中でも巨人化の力を持ちかつての巨人大戦の加害者であるエルディア人への風当たりが強いこと、そしてその巨人の力を戦争の武器として利用していることも救いようがないと言っていいだろう。戦争を起こす巨人たちも、戦争に抗う壁内人類も、結局は戦争や巨人という存在の犠牲となっている存在なのだ。

ここまでの物語の縮図のグラデーションだけでも展開として素晴らしいのに、最終的には巨人vs人類という縮図に戻るというのもまた良い。
そしてただ戻ったわけではなく、始祖の巨人や戦鎚の巨人の力を得て地鳴らしで壁外人類の一掃を行おうとするエレンと、それを阻止する巨人メンバー含めたアルミンたち人類の戦いとなり、奇しくもあれだけ巨人を憎んでいたエレンがラスボスである巨人側となるのは、衝撃だった。

最初から悪役であり敵として描かれるダーク系であればデスノートなどあるかもしれないが、最終的帰着として敵側となるアニメ作品は珍しいのではないだろうか。

ともあれ、色濃い作品の進行の中で対戦の縮図の変化がこの様に変わる様は、作品に熱中させる要素として大きな役割をになっているであろう。

対比が見せる人の選択

物語で時折見せる登場人物の対比的な描き方は、キャラクターの心情や決意をより色濃く描くこととなっている。
中でも主人公との対比関係として描かれるライナーとガビは重要なキャラクターであった。

人類の脅威としてのエレンとライナーの対比

4期にて主人公的立ち位置で序盤描かれるライナーが作中きっての重要人物であることはいうまでもないが、彼というキャラクターはライバルとしても同じ「人類の敵」となる対比関係としても大きく描かれていた。

ライナーは1期にてマーレ軍の戦士として鎧の巨人を継承し、始祖の巨人奪還の任務のためウォールマリアの破壊を行った。そして4期となり、今度はエレンがマーレ軍への奇襲として壁外に潜入し、進撃の巨人の力で多数の死傷者を出したのち戦鎚の巨人の力を奪う。

彼らはどちらも人類の敵として、巨人の力を行使して多数の人々を殺戮した。皮肉にも正義の名の下に。
ただそれに至る心情には、大きな差があった。それが「事の重大さへの理解」だ。

ライナーは壁内人類のことを悪魔だと叩き込まれており、いわば「凶悪な敵から力を奪取する」という使命があったのだ。だから彼は曇ることなく、その力を壁の破壊に利用した。壁内侵入後は壁内人類が悪魔ではなく同じ人間であることに気づき、やがて使命は免罪符と化すのだが、最初の殺戮行動の中では「絶対的な使命」が原動力となっている。

対して、エレンは全てを知った上での殺戮であったといえよう。
これは自分が巨人化することにより罪なき命を多数奪うことになることはもちろんだが、それに対しての結果についてもエレンは知っている。
エレンは勲章授与式にて、ヒストリアに触れることで始祖の巨人の力を発動し、全ての未来を見ている。そのため、自分が起こしたことがどの様に世界に影響を及ぼすのかは十分理解しているのだ。ライナーの様な純粋無垢な使命のためではない。エレン自身が望んだ「ミカサやアルミンたち大切な人たちを守る」ための手段として、また「この景色が見たかった」という潜在的願望から、その殺戮を行ったのだ。

4期にて、巨人化する直前、エレンとライナーは地下で会話を交わしている。ライナーは自分が起こしてしまった殺戮の結果、同じ悲劇が今度は自分の故郷で繰り返されることに絶望する。エレンはその結果を知った上でもなお行おうとするが、その表情はライナー同様に重く陰りを見せている。

ただ一つ、この場での絶望の感情はエレンもライナーも一致しているのだ。
絶望を背負って戦う戦士として、彼らが重なる瞬間であったといえよう。

憎しみの戦士としてのエレンとガビの対比

また、マーレ編にて登場するガビも、エレンとの対比関係として描かれた重要人物である。
彼女は、まさにエレンの戦いのきっかけである「憎しみ」という点で一致している。

エレンは、最初の超大型巨人と鎧の巨人の襲撃にて壁内に侵入してきた巨人に母を殺されている。彼が「この世界から巨人を一匹残らず駆逐してやる」と言い放つきっかけともなる憎しみの一つである。
そしてガビは、マーレ人からのエルディア人への迫害を、壁内人類をエルディア島の悪魔が原因として憎んでいる。エレンたち壁内人類の攻撃時に帰還する飛行船に乗り込む際や、壁内に囚われた際にもしきりに「悪魔」と連呼し彼らを強く憎んでいる様子が伺える。そして彼女が戦士として巨人の力の継承にこだわるのも名誉マーレ人となり自分や家族を憎しみの対象から解放したいという狙いがあった。
エレンは巨人を、ガビは壁内のエルディア人を憎しみの対象として、戦争へとみを投じているのだ。(どちらも元は同じ「エルディア人」であることは、皮肉と言っていいだろう。)

ただ、エレンとガビとでは、ストーリーでの成長が大きく異なる。
エレンは巨人の力、とりわけ始祖の巨人の力を継承してしまったが故にその力を殺戮に向けざるを得なかった。
だが、ガビは作中巨人の力を継承することはなかったため、対巨人戦での戦力としては力がない。(銃撃戦での巨人からの救出劇や最終決戦での銃撃サポートなど実力は発揮しているが、あくまでも巨人としての「力」として、この場では彼女は無力であるとしよう。)
だが、だからこそ彼女は無力を「対話」で補おうとした。サシャの一件を経て自分の憎しみの対象が普通の人間であり、殺人をしてしまったとい十字架を背負った彼女は、生き残ったライナーたちマーレ軍とアルミンたち調査兵団チームとの対立を謝罪と対話で解決するのは、印象的なシーンである。また地鳴らし発動後にファルコの居場所を聞き出そうとした際も、彼女は謝罪と説得でファルコを返してもらおうと抵抗していた。
彼女は大きな暴力への葛藤を経て、対話での解決という道を選べるようになったのだ。

暴力と対話、最終的な帰着点が異なるのも、罪を背負いなお力を得たか、力を得なかったかの差であるだろう。
ただ、どちらも持ちうる力を「そう使わざるを得なかった」という点では、同じなのかもしれない。2人はひとえに、選択肢がそれしかなかったからこそ、暴力に、対話に、力を使ったのだ。

戦争と洗脳の関係性

現実世界と同じ様に、この物語では戦争と洗脳が切っても切れない関係となっている。

壁内人類は、始祖の巨人の力によって記憶を書き換えられている。それにより、全人類は巨人の脅威によって壁内に逃げ込む他なかったと、巨人は人類の脅威であり敵であると洗脳された。
一方で壁外のマーレ人やエルディア人は、巨人の力を行使した壁内のエルディア人は「パラディ島の悪魔」と教育で叩き込まれ、その結果として迫害社会や戦争兵器としてのエルディア人の巨人化とその活用がなされている。
ただ実態としては、壁外には人類は存在し、巨人は敵ではなく同胞の成れの果てであった。エルディア人も壁に逃げたのは憎しみあいの戦争から逃れることであり、事実とは少し異なる。

戦争は憎しみや使命があり、それを糧として行われる。対巨人戦にしても、対人類戦にしても、同じ「憎しみを植え付けた洗脳」が大きな役割を持っているのだ。
そしてこれは、現代の私たちにおいても他人事ではない。現実の問題がアニメとして丁寧に落とし込まれているのが見受けられる点であろう。

力と器の関係性

巨人の力は、人間という器に入ることで継承される。そのため、継承する人間自身の技能や才能にも左右される。

象徴的なのが、ユミルが継承した顎の巨人や、クサヴァーが継承した獣の巨人だ。
ユミルが継承した顎の巨人について、作中での活躍は少ないものの、他の顎の巨人の登場時と比べるとやや苦戦が目立つだろう。さらにジークが受け継いだ獣の巨人の先代継承者であるクサヴァーにおいても、自身の能力について「戦闘向きではない」という発言をしていた。

しかし違う継承者の活躍を見てみるとどうだろう。
ユミルから顎の巨人を継承したポルコは、ミカサからユミル以上と称されるほどの力を発揮している。さらにジークの脊髄液により苦しくも継承者となったファルコについても、最初から調査兵団に引けを取らない実力を発揮している。またジークの脊髄液の効果もあるものの、最終戦では翼の生えた巨人として仲間たちをサポートしていた。
クサヴァーから能力を継承したジークについてもそうで、持ち前の投球技術を活かした投擲により多くの兵士たちを倒した実力者だ。

彼らの実力差からもわかるように、巨人の能力の進化を発揮するか否かは継承者の実力にも左右されるのだ。

そしてその最たる例が、エレンの継承していた始祖の巨人の力であろう。
作中でも語られている様に、始祖の巨人の力は王家の血を持つ者でないとその真価を発揮し得ない。そのためエレンでは力を発揮できなかった場面が作中でも何度かある。しかし、エレンは最終戦を前にして、王家の血を引くジークを取り込むことで始祖の巨人の力の真価を発揮して、地鳴らしを発動した。

エレンは圧倒的な力を振るい多くの人類を殺戮し、アルミンたちを苦しめていったが、最終的にはミカサに打ち倒される結果となった。
それ自体は始祖の巨人の力によって見てきた未来を再現したに過ぎず、エレンの弱さではない。
ただエレンは自身の力が起こした大殺戮についてこうするしかなかったと嘆きながら、「どこにでもいる馬鹿が力を持っちまったからだ」と発言していた。
この発言もまさに、「強大な力を手にしてしまったが、それに足る精神や頭脳がなかった」という力と器が見合わなかったことへの苦悩であろう。

受け継いだ力が全てではない。その力を誰が、どのように使うのか…。力と向き合うことこそ、その力を操ることの本質なのかもしれない。

主人公不在が作る正義の不在

物語の最大の特徴と言っても過言ではないのが、先にも述べたように最終的なラスボスが主人公であるエレンになることである。

私自身、進撃の巨人というものを「戦争の物語」として捉えているため、この構図は非常に意義のあるものだと考えている。なぜならば、主人公を正義側のポジションにしてしまった瞬間に、主人公の行動そのものが正となってしまうからだ。

初期の人類vs巨人の構図の時には、エレンを人類の味方である「正義の巨人」としての役割を担わせていた。人類が立ち向かうべき脅威である巨人を倒す立ち位置は、主人公であり周りのキャラクターを助けるキーマンであった。
ただし、そんな正義の巨人としての役割を担っていた時でさえ、エレンは多数の兵士たちの犠牲の上で守られている側面もあり、エレンが人類の希望であるとともに、兵士たちの多数の犠牲で成り立つ諸刃の剣であった。
最初の正義的側面の時でさえ、エレン自身はある側面では「憎むべき対象」となっていたのだ。

そして、マーレ編では、完全に壁内人類である調査兵団の仲間たちと対立をし、一人暴走していた。エレンの行動により、アルミンたち壁内人類は壁外人類に奇襲をかけざるを得なくなり、その結果多数の罪なき命を手にかけることになった。
ここから最終話にかけてまで、エレンは一貫して敵として描かれていた。
エレンの目的はアルミンたちとは違い、壁外人類の一掃である地鳴らしの発動であり、その真意は「アルミンたちがエレンの首を取り、人類を助けた英雄となる」ことであった。
エレンにとっての正義は、仲間たちの幸せであり、そのためには始祖の巨人の力でいくら未来を見ようとも「人類の8割の殺戮」の他なかったのだ。結果的にアルミンたちが死ぬこともなく、壁外の文明が壁内レベルに落ちたことにより、報復戦争にもならなかった。
エレンの成し得たかったことは達成されたものの、やはりそこには本当の正義はない。

では、エレンと戦ったアルミンたちが行ったことが正義かと言われれば、それも違う。アルミンたちとまた、数多くの人々を手にかけてきた殺戮者であるからだ。

最初の巨人討伐に関しては、人の殺戮と言っていいかは意見が分かれるところであろう。
というのも、人から巨人になった瞬間、肉体も精神も異形のものと化している。九つの巨人を喰うことは「蘇生」に近く、人間としては彼らは死んでいるとも言える。最終戦ではジャンたち巨人となった人々もエレンの死によって人間に戻ったので「まだ人間に戻れるかもしれない存在」の殺害には変わりないかもしれないが、個人的にはゾンビ狩りに近いものとも思える。

だが、ウォールシーナでの憲兵たちとの戦いや、マーレ側への攻撃、そして敵対する調査兵団の仲間たちの殺害と、進むにつれて多くの「人間」を手にかけている。
これも段階的であり、憲兵たちは「自分たちを殺しにかかる敵陣」、マーレの人々は「敵陣ではあるものの罪のない人々」、敵対する調査兵団は「道を違えてしまった仲間」であった。徐々にグラデーションのように敵意のないものへと殺戮対象が変わっていき、最終的にはアルミンたちは殺したくない仲間であるエレンを殺すに至った。
彼らはの殺戮は人類を守るという大義名分のためであった。多くの人類と大切な仲間という命を天秤にかけた結果、人類の方を選んだに過ぎないのだ。

主人公という視点を消すことで、絶対的正義をなくし、それを打ち取る仲間でさえも、絶対的な正義ではなかった。
彼らは正義のためではなく、自分たちの信じるもののために戦ったのだ。その背中に、多くの人類の死という十字架を背負って。

継承の物語の果てに

進撃の巨人という物語は、ある意味で継承の物語であったといえよう。

たくさんの兵士たちの死が描かれた調査兵団での戦い。心臓を捧げよと鼓舞しながら、彼らは人類のためにその身を捧げて、仲間たちに未来を託した。リヴァイが最後に見た仲間たちの幻影が物語る様に、最後戦った調査兵団メンバーは確かに過去戦ってきた兵士たちの魂の継承している。

九つの巨人の力というのも、過去に戦ってきた戦士たちを喰らうことでその身に力を継承している。そして彼らの記憶は継承者の中で生き続けていた。

また戦争というもの自体も、憎しみ合いという人類が紡いできた歴史の継承に違いない。

最後の戦いでも、人類の8割を殺戮するという罪を、アルミンはエレンと分かち合い、一緒に地獄で会おうと約束した。

数多くの継承の果てに、物語は終結したのだ。

そして完結編後編のエンドロールで、さらにその後の物語が描かれる。歴史は継承され、争いは終わらない。巨人の争いが終わってもなお、未来の人類は戦争を行うのだ。

辿る道は同じかもしれない。
それでも自分の意思で、自分がなすべきことを果たしていかなければならない。
そんな風に物語を経て、私は思ったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?