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道草の家のWSマガジン - 2023年10月号


琥珀色 - 田島凪

 きみから私をゆっくりと引き剥がし、その背中に枕を添わせる。夜が終わったことを、きみに気取られないようにそっと。腹筋に力を込めて上体を起こし、糸よりも細く息を吐く。目覚めはじめた呼気が、眠りの海に波紋を描かぬようにすっと。

 猫の足の運びで部屋を後にし、仄かに薄荷の香る台所に向かう。夜を見届けた鏡の前に立ち、時を告げる鳥のように身繕いをする。置く前に心で三つ数えれば、ブラシは音を立てない。
 推定十七歳の、この世でいちばん美しい犬は、病と老いの冷雨に濡れそぼつ。昨夜も一度吐き、腫れもののできた後ろ脚をしきりに気にしていた。シーツを交換し、大丈夫だよと囁く。脚を優しくさすり、イタイノトンデケ、と呪文をかける。白内障で濁った暗灰色の瞳が、靄のような私を映す。不安な目をした、えくぼを寄せて微笑む人。
 薬缶を火にかけ、雪平鍋でささ身を煮る。もとは明るい銀色の、きみと暮らした十二年ですっかり琥珀色になった小さな鍋を見つめる。布も金物も漆喰も人も植物も動物もみんな、最後は琥珀色になるのだと思う。数億年前の樹木の樹脂の化石である琥珀の色は、私たちに流れた時間が鎮まるときの色と同じだ。

 母と娘のために梨を丸く剥く。林檎を鋭い櫛形に切る。沸騰が歌を歌わないよう、沸く前に火を絞る。それから台所から首をのばして、きみの眠りを確かめる。
 枕と並んだ背中が膨らんでは縮む。亜麻色の尻尾が読書灯の下で輝く。艶々とした、もぎたての玉蜀黍のように。見えない顔はわかっている。目を瞑っても、ここにいなくても、朝方の淡い夢の中でもきみはいつも傍にいる。白い睫毛に縁取られた目と、粉砂糖を振りかけたような鼻。静かな放物線を描く髭と、軽くカールした柔らかな毛。私が荼毘に付され、骨と記憶だけが残ったら、そこにあるのは十二年分のきみの姿に違いない。
 もうすぐきみは去るだろう。比較的長命な小型犬であれ、人で言えば齢九十を超えているのだから。私は菜箸と覚悟を固く握りなおす。関節が青くなるほど強く。それから、ささ身の鍋を火からおろし、ドライフードを計量する。ささ身をほぐし汁ごとボールに入れて、ゆっくりとふやかす。音を立てないように静かに。嚥下しやすいようにソフトに。
 私は祖父に何でも訊いた。辞書よりも厚みのある彼の思慮を信じていたから。人はどうして生まれるの。思い出を作るためだよ。人はなぜ死ぬの。思い出を残すためだよ。そうして祖父の言葉は残る。研ぎ澄まされた答えではなく、揺らめくような永遠の問いとして。
 きみがいなくなったあと、私はどうやって起きるのだろう。蒲団を跳ね除け、力任せに窓を開けて、騒々しく台所に向かい、髪を梳いたブラシを棚に置くのだろうか、ほとんど放るようにして。数など数えはしないで。
 きみの朝ごはんが出来上がる。薬箱を取り出し、朝の薬を揃える。ティースプーンをボールに添える。口拭き用のタオルを準備する。
 きみがいなくなっても、私は静かに起きるだろう。ゆっくり息を吐いて窓を開け、捩れたシーツを綺麗に伸ばし、猫のような足取りで台所に向かい、暗がりに身を滑り込ませる。鳥のように身繕いをして、三つ数えてブラシを置く。きみがいたときのように。きみがいるかのように。
 それから台所から首を伸ばし、きみのいた場所を眺めるだろう。小さな背中が膨らんでは縮むさまを思い出し、もぎたての玉蜀黍のように輝く尻尾に恋い焦がれ、二度と聴くことの叶わない愛らしい寝息を過去の鼓膜の中に探すだろう。最後に、あの忘れられない暗灰色の瞳いっぱいに、私の姿を認めるだろう──琥珀色の、不安そうな目をした、えくぼを寄せて微笑む人の姿を。
 おはよう小町、と私は声をかける。


麻績日記「温故知新」 - なつめ

 移住お試し住宅に泊った翌朝、自然に目が覚めた私は、窓の外におじいさんらしき人がこの家に向かって歩いて来るのが見えた。手に何か持っている。この家の玄関先にそれを置いた後、すぐに去って行った。私は気になり、隣で寝ている息子が起きないように、そっと起き、玄関のドアを開けた。すると、きゅうりとなすの頭が見えるビニール袋がそっと玄関の脇に置いてあった。袋の中には立派なきゅうりとなすが数本入っていた。昨日の夕方、このお試し住宅の裏の家のおじいさんに「どこから来ただ?」と、話しかけられ、あいさつ程度に話しただけだったが、そんな私たちに野菜を置いていく人がいるなんて。ほのぼのとしたやさしい気持ちが心の中に広がった。まるで昔話の『かさ地蔵』で、お地蔵さんが玄関先に食べ物を置いて去って行った最後の場面のようだった。

 その後、近くのゴミ捨て場にゴミを出しに行き、近くのバス停の時刻表を見ていた。駅前に行くバスの本数はかなり少なく、朝と夕方しかバスが来ないようだ。
「この辺で、バスに乗るやつはほとんどいねぇ。」
 と、突然声をかけられた。振り返ると、背丈の様子から、今朝家に来たあのおじいさんだとすぐわかった。
「バスに乗るのか? この辺でバスに乗るやつはいねぇ。バスに乗るときは手をあげた方がいい。手を挙げないと行っちまう。」
 と、ニコニコしながらおじいさんは言った。
「バスに乗るのに手を挙げるんですか?」
「ああ、じゃないとそのまま通り過ぎて行っちまう。」
「初めて知りました。」
 手を挙げないとバスに乗れないことを聞けて良かった。この家から駅までは歩いて1時間ぐらいかかるかもしれない。真夏にそれはつらい。
「あ、先ほどは、野菜をありがとうございました。」
「ああ、うちの畑で採れた野菜なんだけど、食べきれないから食べてやってくれ。」
 と、苦笑いながら、おじいさんは畑を見て、たくさんできた野菜があっても食べてくれる人がいなくて困ると言った。東京の野菜の値段は高いが、ここの畑の野菜は食べきれないほどできる環境であることを知った。私はうらやましく思ったが、おじいさんにとってはそうではないということだった。朝のバスに乗れなかったら夕方までバスは来ない。不便だけれどどこか私にとっては新鮮だった。東京に住んでいた私にとっては時代も違う昔話の世界にいるようだった。古さの中に新しい価値観を見つけ始めていた。今何時代のどこにいるのだろう、といったような不思議な感覚になり、現実離れした気持ちにもなった。そして息子が寝ているお試し住宅に戻り現実を確かめた。

 出かける準備をし、おじいさんの言っていた通りに、バス停で手を挙げ、無事にバスに乗ることができた。バスの運転手は珍しそうな顔で私たちを見ていた。バスに乗る人はいつも同じ村人のようだった。朝のバスに乗る人は、大きいバスの中に、たったの二、三人ぐらいで、そこに見かけない親子が民家からバスに乗ってくるのだから、運転手も村人も驚いた様子であった。ところどころに古い家が並んでいるのどかな細い道を走りながら、駅の近くにある村役場に着いた。その日、私たちは役場の移住相談係の松本さんと住宅係の青木さんと、移住お試しツアーとして、空いている村営住宅の内覧と、村内の観光地を周ることになっていた。村営住宅はきれいで広く、家賃も安く、本当にここに住めたらいいなと思った。その後、村の唯一の名所と言われる山と湖に案内してもらった。車に乗り、急な坂道をくねくねと上がって行き、20分ぐらいで湖に着いた。そこは村にある観光地でもあるらしいが、夏休みだというのに、人はほとんどいなかった。ほどよい広さの湖の中に、ボート乗り場があり、その先を少し上るとリフトで山の上まで登ることができるという。湖や山を一日で手軽に楽しめそうな広さだった。早速、山の頂上まで行けるリフトに乗り、私たちはとてもワクワクしていた。役場の二人も後ろのリフトに続いて乗り、みんなで頂上に着いた。そこは想像した以上に眺めが良く、少し遠くの北アルプスもきれいに見えた。心地よく涼しい風が吹いていた。観光客らしき人はほとんどおらず、展望台からは、遠くにある山々を360度見渡せた。しばらくその頂上からの景色を眺め、本当にいい場所だなと思いながら、心地よい風を感じていた。その頂上の脇に、スカイライダーという上から下まで滑るスライダーがあり、息子は松本さんと一緒に下まで滑ることになった。すっかり松本さんが気に入った様子の息子はうれしそうに松本さんとスカイライダーで爽快に滑って行った。下まで降りると、湖の横にレストランがあり、「良かったら一緒にお昼ごはんを食べましょう!」と、みんなで一緒に湖畔のレストランでお昼ご飯を食べることにもなった。同じテーブルで一緒に定食を食べ、おだやかで楽しい昼食だった。こんなにおだやかで楽しい時間を過ごしたのはいつぶりだろうと、心安らぐ時間だった。松本さんも「久しぶりに仕事が楽しい~、いつもこんな仕事だったらいいのになぁ」とうれしそうに笑っていた。東京に住んでいるときは役場の方とお昼ごはんなど一緒に食べることなどなく、名前と顔も覚えられることはなかった。この村は今までの私の生きていた場所にはなかったことが色々と存在していた。出会う人も、環境も、風景も、自分の感情も、何もかもが真逆で、今まで見えていなかった世界が突然現実として私の前に現れたのだった。

「湖にボートもあるので、ゆっくりお楽しみください。また夕方頃、役場の車でお迎えに来ますので。」
 と、お昼ご飯を食べ終えた後、二人は車で役場に戻って行った。お試し住宅まで行くバスはないため、松本さんは再びここへ来てお試し住宅まで送ってくれるということだった。車がない私たちにとって、それはとてもありがたい。しばらく息子と湖の足漕ぎボートに乗り、ウクレレを弾いたりしながら、のんびり過ごしていた。その日にボートに乗っている人もわずか数人で、こんなに良いところなのにどうしてここに来る人はこんなに少ないのだろう、と思っていた。でもそのときの私にとってはそれがかえって良かった。知る人ぞ知る場所を見つけることができたような気持ちと、静かさと安らぎを求めていた自分にとって、この場所はピッタリの場所だったのである。それはまるでそんな自分のために訪れるべきタイミングで訪れる必要があったような、そんな場所だった。


犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑪

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「忘れ物」
 私はこんなサブタイトルのエッセイを書くような人間であるので、ドジであることは認める。もうこれは疑いようのない事実である。しかし、生まれてこの方、自宅の鍵を無くしたことも、財布を落としたこともない。(新幹線の降車時に切符を失くしたことはある)。忘れものというのもあまりしたことがない。小学生のころなどは翌日の準備はきっちり前日に済ませておくタイプだったので、しょっちゅう忘れ物をする同級生のことをむしろ「なんでこの子はこんなに忘れ物をするんだろう······。」などと理解不能な感じで眺めている児童だった。自分にも厳しい方だが、そういう人間はなかなか他人にも厳しいところがあるのは自覚している。大人になって社会に出てみると、本当にいろんな性格、仕事のやり方の人に出会うわけで、他人に厳しかった私もずいぶんと揉まれて多少は柔らかい人間になりかけているところだ。
私の書くものを長く読んでくれている読者の方がいるとすれば、私が紆余曲折をへて急に看護学校へ通って看護師になったことをご存じの方もいると思う。看護師になる前はなんどか転職をした私だったが、この看護師という仕事は意外なことに長く続いている。今の職場は居心地がいいこともあって、私はすでに古株のスタッフというところだ。看護師の仕事というのはめちゃくちゃやることが多いと思う。会社員として企業に勤めていた身としては、本当に毎度どうしてこんなにタスクが多いのかと思う。加えて、コロナ禍になってからはそのタスクが余計に増えた。とにかくやることが多い。しかもこの夏にはコロナとインフルエンザの同時流行がやってきて、「ちょっと、インフルエンザ! あなたは冬の風物詩だったでしょ? なに真夏にでてきてんの? こちらはコロナの対応でいっぱいいっぱいなのよ? 一回帰ってくれる?」とお帰り願いたいほどの事態になった。9月になってもまだ暑く、しかし勤務先では防護服着用は遵守されていて、がっちりしたN95マスクとフェイスシールドもしっかりと使っている。
忙しい職場ではあるが、楽しいこともある。人間関係は良いので風通しはよい。しかしこのマルチタスクのおかげで誰しも時折些細なミスをする。先日も前日に出勤していた同僚のちょっとしたミスがあったので私は迷った末、共有するために連絡ノートにそのことを書いた(優しくね)。書かなくてもよいかもしれない······と思いつつここで他人にも厳しい部分が発動。人のミスを指摘するのは心苦しいものだ。別の同僚はそれを読んで「○○さん、疲れていてきっと忘れたのね。普段そんなことしないもの」と言っていた。そうよね、と応じた私はちょっと安心してトイレへ行った。そこでみた自分に顔に違和感を覚えた。N95マスクをしているからではない違和感······。私ってこんなぼんやりした顔だっけ。あっ、眉毛がない。走馬灯のようによみがえる朝のメイク時のこと。メイクの途中で息子の朝ごはんを準備して、慌てて出勤した。最後の仕上げで眉を描くのを忘れたのだ。まじか。私、朝からずっと眉毛がない状態で仕事していたのか。眉毛がない状態のまま、真顔でコロナとインフルエンザの検査を患者に行い、あるいは採血をし、検査の説明をし、お大事に、とほほ笑んでいた私。私のすっぴんの眉毛は左右の高さが違い、眉尻もほぼない。描き忘れると圧倒的にブス度が高まる最重要ポイントなんである。どうして誰も指摘してくれなかったの。こんな大事な忘れ物を。風通しのよい人間関係でしょ、この職場は! ここで私は大ブーメランに気づくのである。そう、人のミスを指摘するのは心苦しいものだ。
では今月もご唱和ください。「本当にドジとハプニングの神は私を愛している」。



北海道 - maripeace

先月、コロンビア行きのこと書いたのだけど、今回はひと夏過ごした北海道について書いてみる。

私の母は札幌出身で、こどもの頃は長期休みになると祖父母の家で過ごすことも多かった。夏は近くのプールやスパへ行き、冬は滝野すずらん公園という広大な公園で真っ白な雪原で「歩くスキー」をし、定山渓じょうざんけい 温泉に行ったり、小樽でガラス細工を買った。祖母が庭の梅の木の実で梅干しを作ったり、にしん漬けという冬の保存食を作っているのを眺めたりしていた。大人になってから母に連れられて利尻礼文に行ったことはあるけど、大学生がよくやるような車で北海道旅行! という経験がないので、札幌以外の場所や観光地についてはよく知らないなぁという感じだった。

去年、札幌の藻岩山にあった祖父母のお墓を東京に引越した。いわゆる墓じまいというやつで、もう親戚もいないし、行くことはあまりないだろうなぁと思っていた。東京の夏はどんどん暑くなっていて、それに比例して体調も悪化し、7月半ば、従兄弟の家に避暑に行くという両親について釧路へ行った。気温18℃。雨が降っていて寒いくらいだった。このまま39℃の東京へ帰りたくはない。札幌の友人を訪ねようと、飛行機とホテルを予約した。

オンラインサロンで知り合った友人なので、リアルで会うのは初めて。ホテルに会いにきてもらい、昔よく祖母と遊びに行った市の中心部の商店街、狸小路をうろうろする。海外からの観光客でごったがえし、高校総体も重なってホテルの値段はかなり高くなっていた。早朝に歩いたらレトロな看板があったりして、沖縄の公設市場周辺の雰囲気と似ているなと感じた。もう明日には帰ろうかな、という時に、札幌在住の別の友達に17年ぶりに連絡した。彼女は東京にいた頃からシェアハウス形式で住んでいて、よかったら泊まって、と言われそのまま1ヶ月近く滞在することになった。

最初の数日は、あぁ、涼しいなと思っていたがどんどん暑くなって30℃を超える日も出てきた。友人の家にはエアコンがない。外出先のお店もエアコンがなかったり、あっても家庭用一台で威力が弱かったりした。それでも温泉に行ったり海水浴したりお蕎麦を食べたり、子どもの頃よりも充実した夏休みを楽しんでいた。

7月にhataoさんというアイルランド音楽の演奏家の方とお会いする機会があった。その頃も東京は暑すぎて昼間は外出できなかったけど、3つ先の駅のアイリッシュバーにhataoさんが20時過ぎに立ち寄るということで、これなら行ける! と思って電車に乗ったのだった。hataoさんは13種類くらいの笛を演奏してくださり、美味しいラム肉を食べて、充電できた。それからしばらくして、札幌に滞在することになり、市内でコンサートがあると知った。コンサートの前に「セッション」という楽器を持ちよってみんなで演奏する枠があってこちらにも申込した。その話をルームメイトにしたら、なんと7年もフルートをやっていたという。私は初心者だけど、なんとかこのセッションに参加したい。練習がてら涼しい場所を求めてスタジオ検索していたら、地元の駅から数分のところに安く借りられる場所を見つけた。ルームメイトとも17年ぶりの再会で、彼女がフルートをしていたことも、スペイン語を勉強していたことも全く知らなかった。2時間練習に付き合ってもらい、帰りに美味しそうなケーキ屋さんを見つけて持ち帰って2人で食べた。シュークリームとプリンとアップルパイ。

会場の中島公園は祖父母の家の近所だったので、子どもの頃よく遊びに行った。カモが、これでもか、というくらいリラックスして佇んでいる。カモメも一羽混ざって餌をもらっている。この日も結構暑かった。古い洋館なのでエアコンはあまり効いてない。セッションはアイルランドの各地のバーでは毎週開催されているけど、日本ではなかなか参加する機会がない。旅先の方が積極的になるんだろうか? 私は1曲だけでも一緒に演奏できたら、と思い当日に臨んだ。隣はリコーダーの奏者の方で、他にはカンテレというフィンランドの弦楽器がたくさんと、ハープが大勢、それ以外にアコーディオンやフィドルなどの人がいた。曲数がなかなか多くて、後半になるにつれどんどんペースがあがっていったのだけど、なんとか吹ける曲の吹ける音だけ参加した。ノルウェーの曲は初めて聴いたけど好きだなぁと思った。hataoさんとnamiさんは普段関西をベースに活動されていて、この二、三年はほとんど東京で活動されていないようで、札幌で初めて生演奏を聴くことになった。帰りはリコーダーの方が近所の方ということがわかり、車で送っていただく。誰も知り合いのいない場所に参加するのは勇気がいったけど、思い切って参加してよかった。

そんな感じで、北海道には通算2ヶ月滞在することになった。


壁の花 - RT

ずっと自分は壁の花というやつだと思っていた。誰かとふたりだと話せたりするのだけど人数が増えてくると話せなくなって、話す順番が回ってくるかと思うとハラハラドキドキしてどうか回ってきませんようにと祈って、確か赤毛のアンだったと思うけどパーティーでカーテンの影に隠れる人が出てきて、これわたしだ。と思っていたし実際小学校の時カーテンの中によくくるまっていたものだった。
スタンダードブックストアさんのイベントで、「BEACON」というZINEを作っておられる石垣慧さんのお話があって、イベントについて店主の中川さんがTwitterで紹介しておられる文章がとてもよくて、ZINEが、「すべての壁の花に」と題された号だったのだ。もう文章全部がビビビッと心に響いて、即申し込んでイベントの当日向かった。
レジで参加費を払って、なんとなく2列目に座った。何人かの人がやってきて申し合わせたように2列目に座って、最前列は埋まらないままに開始時間になった。時間を待ちながらなんかおかしい気がしていた。人が少ないのだ。中川さんと石垣さん、小説を書いておられる蒜山目賀田さんが出演者で参加者はわたしを含めて4人。いつものイベントは何十人と来ているし、今日は会場が熱気でワラワラになるやろと思っていたのに意外やなと思った。石垣さんたちがこちらを見て、みんなで2列目に座って奥ゆかしいみたいなことを話していて、セーフ。と思った。わたしはたいてい早く着いて最前列に座ることが多いのだ。たまたま気分で2列目に座ったのが幸いした。驚いたのはその後だった。自己紹介タイムになってどうしてこのイベントに参加したのか話したのだけどなんとわたし以外の3人は石垣さんの知り合いだという。わたしは「このイベントと本の紹介文を見てぐっときました。」と言った。でもイベントのあとサインを求めるでも話しかけるでもなく、ああ面白かった。来てよかったと思いながら帰った。家でそのことを話して、おかしいねん、なんで誰も来んかったんやろうな。と言ったら、「ほんまもんの壁の花はそういうところにいかへんねん」と言われてなるほどと思った。

じゃあわたしは何なのだろう。この人いいと思ったらすぐ話を聞きに行ったりコンサートのチケットを取ったりする。ああ世の中にはすごい人がいる。わたしも頑張ろう。と思って帰ってくる。こういうのはなんていうのだろう。
このことについて考えていたら心の中に「いっちょかみ」という言葉が浮かんで、そうなのですね。と思った。
こんど東京に行くのだけど叔母がずっと東京で暮らしていて何年か前に和歌山に引っ越してきて叔父を看病しており、叔父が亡くなって一周忌も済んだのでもう旅行も出来るだろうし銀座の話をしていたからわたしも一回どんなところか行ってみたいし叔母を誘ったのだ。そしたら「銀座懐かしいわー」「嬉しいんだけどちょっと眩暈がしていて、駅で倒れたりして迷惑かけても申し訳ないし」「もう友達もひとりふたりと亡くなっていくのよ」と言った。遠慮は無用だと思って保険証があったらなんとかなる。わたしは大丈夫だと言ったのだけどあんまりしつこく誘っても悪いから残念だけどお大事にしてくださいね。と言った。
年をとってくるともういつ行けるかわからないからあちこち行きたくなるのじゃないの? うちの親は早く亡くなったり入院したりしていたからわからないけど主人の祖父母がそうだったし義母もそういうタイプだからほんとうにびっくりしてしまって、叔母ちゃんひとりで絶対東京行けへんよな。東京行かないままに死んでしまってもいいんかな。と家族に話したら、別にいいんちゃう? 東京出身じゃないんやし。と言われて。そういえばそうだった。もともと和歌山出身で叔父の仕事の都合でずっと東京にいただけで。
たぶん心に余裕があったらあちこち行きたがったりしないのだ。叔母は物静かでほとんど喋らないのだけどこの人を大切にしなければと思う雰囲気をまとっていて、壁の花どころかほんとうにお花のような人なのだ。わたしは叔母のようになることを目指しているのにちょっと間違えて別の伯母に似てしまった。どうしよう。
兄が教えてくれたカフェ開業チャレンジ講座が始まって、わたしはお店をやりたい動機のところに「珈琲どころでない人に珈琲を飲んでもらいたい」と書いた。たぶん理論が破綻している。そういう人はお店に来てくれないだろうし放っといてくれと思っているだろう。
よく娘に言われる。みんながママのような考え方じゃないからって。こうしなければならないという思い込みが強い。美味しい珈琲を飲んでほっとする気持ちをみんなに伝えたくてうずうずしているのだ。
うっすらと思い出したけど子供の時病院に連れていかれてまっすぐに歩く検査をされたことがある。まっすぐ歩けたのだろうか歩けなかったのだろうか覚えていない。育てにくい子の扱いをされたと思っていたけど本当に育てにくかったのだろう。親に同情する。一番困ったことはそういう自分が結構好きなことだ。ずっと自分のことが恥ずかしくて好きじゃなくて苦しんでいたのが遠い夢のようだ。
カフェを本当に始められるのか、実家を売却できてお金が入ってくるのか全く見当がつかないけどこのごろなんだか朝起きたら楽しくて、見るもの見るもの美しく感じられて、ほんとうは珈琲じゃなくてもいいのかもしれないと思う。これからも自分ができることを探していこう。調子に乗り始めたら神様が止めてくださるだろう。


ジャンル論 - 下窪俊哉

 私は書くことの苦手な子供だった。作文の宿題があると、広々とした原稿用紙の空き地を、呆然として眺めるだけで時間が過ぎてしまう。
 ここで鮮やかに思い出すのは、小学5〜6年生の頃にクラスメイトのあるひとりが、原稿用紙をくしゃくしゃにして読書感想文を書いていた光景だ。そんなふうに自分もしたい、と思った。しかし、それも簡単に出来るものではなかった。くしゃくしゃにするためには書いたものを消さなければならない、消すためには、とりあえず何か書かなければならないのだが、それが書けないのである。
 この記憶からわかることは、子供の頃からの自分が、理路整然とスラスラ表現されるものよりも、何かを探りつつゴツゴツ表現されるものの方に惹かれていたという事実だ。

 書くのが得意ではなかったのに、大学では文芸を学ぼうとした。幼い頃からの吃音がスムーズに話すことを阻止するので、せめて書きたいということはあったかもしれない。そこに行くと詩を書く人とか小説を書く人がたくさんいて、私はそういう者ではなかったが、影響されて何か書き始めようとした。
 とはいえ、やはりスラスラは書けず、重たい扉を開けようとして、開かない、というふうな書き方をしばらくしていた。書くときには吃音は関係ないはずなのに、やはりスムーズにはゆかないのだった。書きたいことは、あるようでいて、ないようでもある。
 何かボンヤリしたものが、書こうとしている自分のなかには渦巻いているようだ。それを書いて、一体どのようなものになるのかは、サッパリわからないのだが······
 しばらくは小説のような、エッセイのような散文を書いていたが、あるとき、それに収まらないイメージを、詩のような形式を借りて書いてみた。それを身近にあった同人雑誌に出したら、掲載はされなかったのだが、犬飼愛生さんという詩を書く人が読んでくれたらしくて、その雑誌の人たちが集まる宴会の席で話しかけてきてくれた。
 どんな話をしたのか詳しくは覚えていないのだが、「これは詩とは言えないと思うが······」というようなことを言われたのではなかったか。
 私はその随分前から詩を読むのは好きだったが、自分自身が詩を書く人になるとは、なぜか考えていなかった。犬飼さんの方も、その前に私の散文を幾つか読んでいたはずなので、そう話すのに遠慮はいらなかったかもしれない。
 詩とは言えない、そりゃそうだ、と私も思ったのではないか。

 そこで、「ジャンル論」が立ち上がる。

 詩とは何か。戯曲とは何か。小説とは何か。評論とは何か。エッセイとは何か。随筆とは何か。云々

 そういった問いに、一般論として答えようとしたら、よくわからなくなったり、はっきりしないものだと言ってみたくなったりする。
 しかし、大切なことはそこにはないのである。
 たとえば私が小説を書くときに、小説とは何か? を考えていること、考え続けていること自体が、その「ジャンル」を成り立たせている。
 はじめから定義の固まった「小説」という型があるわけではないのである。それは、文芸をこえてあらゆるジャンルについて言えるのではないかと思う。
 仮にでも私の考える「小説」があり、書きながら、そこへ近づいてゆく。その背景には、自分がこれまでに読んできた「小説」がある。それをどのように読んできたかというのは、自分にしかわからない。それが、自分という書き手のベースになり、それに支えられてこそ、自分とっての何かが、書けるようになる。

(私の創作論⑧)


表紙画・矢口文「日の もとで(空空無無)」(紙(アルシュ)、木炭)


ひとこと - 矢口文

酸っぱさも苦さも辛さもしあわせももう十二分空空無無

9月21日、早朝に母は極楽へと旅立ちました。
母は生前短歌の会に所属していて最後の投稿6首のその最後がこの歌でした。
空空無無について、母は般若心経のことだと言っていました。私は般若心経にそんな一節があるのだろうくらいに思ったのですが、棺に般若心経を入れようと思ってネットでPDFを探してプリントして見ていたらそんな一節はなく、空と無はそこかしこにありました。
父は母なりに般若心経を凝縮したのだと言いました。私はどっちかというと、母は般若心経をうろ覚えで空と無がいっぱいあったなくらいに思っていて適当に略して「空空無無」と唱えたのではないかと思いました。そういうちょっとふざけたみたいなものだったのではと私は思います。
自らの死を目前にしてそんな余裕があったんですね。見事な人生の締めくくりだったと思います。
私から母へ。「よく生きた、よくがんばった。素晴らしい人生だったよ」


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● ようやく涼しくなってきた10月、それでも今日の昼間はまだ半袖で過ごせる陽気でしたが、今月もWSマガジンをお届けします。● 先月に続いて書いているmaripeaceさん、そして今月初登場の田島凪さんは、道草の家のワークショップに以前参加していた2人で、嬉しい再開、という風です。● このWSマガジンの参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、さらに話すこと、というのもあり「WSマガジンの会」というのを毎月、画面越しにやっています。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● ではまた来月。ぼちぼちお元気でお過ごしください!


道草の家のWSマガジン vol.11(2023年10月号)
2023年10月10日発行

表紙画 - 矢口文

ことば - RT/犬飼愛生/下窪俊哉/田島凪/なつめ/晴海三太郎/maripeace/矢口文

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカの夜/WSマガジンの会
読書 - 勝手によむ会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 五里霧中
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
心配 - 鳥越苦労グループ
名言 - 最後尾を走りすぎて先頭に出る。
謎々 - 宇宙人が地球にやってきた時の天気は、なーんだ?
音楽 - 秋の虫
出前 - 缶詰カレー研究所
配達 - 秋風運送
休憩 - マルとタスとロナの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房


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