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私の積読リスト(最近買ったものから本棚の隅に眠っているものまで)

ふと、積読リストさらしてみるのも面白いかなと思いやってみる。
まだ読んでいない、読み終えていない本たちを一気に手元に引き寄せてみると、こんな感じになった。

(1)『青い蛇 十六の不気味な物語』トーマス・オーウェン著
(2)『クィア・スタディーズをひらく 1』菊地夏野、堀江有里、飯野由里子編著
(3)『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』谷川俊太郎著
(4)『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』矢野久美子著
(5)『布団の中から蜂起せよ:アナーカ・フェミニズムのための断章』高島鈴著
(6)『東京地名考 下』朝日新聞社会部編
(7)『あなたの人生の物語』テッド・チャン著
(8)『縄文とケルト 辺境の比較考古学』松木武彦著
(9)『わが母なるロージー』ピエール・ルメートル著
(10)『天国でまた会おう』上下 ピエール・ルメートル著
(11)『死者の書』折口信夫著
(12)『ホモ・デウス』上下 ユヴァル・ノア・ハラリ著
(13)『まんが訳 酒呑童子絵巻』大塚英志監修/山本忠宏編
(14)『トーベ・ヤンソン短編集』冨原眞弓編訳
(15)『英語類義語活用辞典』最所フミ編著
(16)『日本の地名』谷川健一著
(17)『新版 本屋の窓からのぞいた「京都」』恵文社一乗寺店著

最近買ったのは(1)から(5)。
『青い蛇』は、渋谷のBunkamuraミュージアムへイッタラ展を見に行った時に、そのミュージアムショップでつい表紙とタイトルに引き込まれてしまい、ジャケ買いしてしまった1冊。
半分くらい読み終えたが、なかなかに幻想奇怪な短編集である。私の感想は「悪くない」だが、起承転結がはっきりわかる小説が好きな人には全くオススメしない。

『布団の中から蜂起せよ』は、イブにしあんと出かけた新宿の小さな本屋で見つけ、ずっと気になっていた本だったのでこれも出会い!と勢い買ったものである。面白そうな本が所狭しと並んでいる、いい本屋だった。店名を覚え忘れたが、新宿御苑のすぐ近くであった。

(6)から(11)あたりは買ってしばらく読めていない。
(6)京都旅行へ行った時に恵文社一乗寺店にて買う。上はなかった。(7)海外SF好きな友人に薦められて。(8)青森旅行へ行った帰りの新幹線のお供に、と買って未だ読み終えていない。(9)(10)ルメートル作品をすべて読みたくなり大人買い。(11)民俗学に心惹かれる身として一度は読むか、と思って読んでいない。(12)誕生日プレゼントにもらったものの重厚すぎて下に進めておらず。
(13)以降はもはやいつ買ったのかも覚えていない。

こうしてみてみると、旅行の思い出と紐づいている本も多い。
実は『ハンナ・アーレント』も、名古屋旅行の帰りに高島屋の三省堂書店で買ったものである。
最近何か暇をつぶす際、SNSをやっていてもYouTubeを見ていてもつまらず、マンガを読む気にもなれず、本なら読む気になれる、という時が多い。
実際には読み終えていない本がこんなにあるのでほんとか???という感じだが、キラキラ輝く極彩色の画面から離れ、アイボリーと黒の2色のみに彩られた「ことば」を味わうのも悪くない。

小説がほとんどないのも大きな特徴だろう。
名古屋旅行の帰りのお供を探しに三省堂書店を訪れた際も、ヒット小説や自己啓発本は山積みにされていたが、私が心惹かれるタイトルのものにはなかなか出会えず、新書コーナーで何とか気になっていた『ハンナ・アーレント』を探し出したようなものである。

心惹かれるタイトル、というのは不思議である。
図書館をぶらぶらしているといくつも気になる本が出てきて、2週間でこんなに読めんわ!と諦めることも多いのに、本屋で書籍を眺めていても、なかなかピンとくるものがないことも多い。
新鮮さが売りの駅チカ本屋ではなかなか出会えないものを、私は求めているのかもしれない。

「ことば」を味わうと言った矢先にこんなことを書くのもおかしいが、恐らく私は今、本から「知識」や「歴史」や「広がり」を得ることを求めているのだと思う。
「古典・歴史に立ち返らなければわからないものがある」「言葉をもっと知りたい」「今求めている知識を得たい」という思い。
数か月前に明治維新に関連した書籍を連続して数冊読んだが、明治維新という社会変化のダイナミックさには本当に驚かされた。私たちが伝統とみなしているような事象・考え方がこんなにも最近作られたものだったとは。
そのダイナミックな社会変化が現代にも起こっているとしたら、明治維新後の日本が得たもの・取りこぼしたものを改めて捉えなおすことで、私たちが得られるものもあるのではないだろうか。

逆に、小説の描写から映像を脳内に映し出し楽しむ、という行為は私にとって難しい。
ゆえに風景の描写というのは昔から飛ばしがちだったし、筋が追えればとりあえずよい、という好みだったように思う。ミステリ好きというのはそういうところが恐らく影響している。逆に純文学の類は今でもなかなか理解が及んでいないような気がするし、なかなか手も伸びない。

また、小説というのは物を知っていないと書けないし、読めないものではないだろうか?と最近思っている。
主人公が入ろうとしている建物がどんなものなのか、何を食べどんなものを着ているのか、その人物造形や舞台設定がリアリティにあふれていると思うからこそ私たちはその小説を面白いと思う。逆に言えば、そこに知識がなければ何気なく描写することは不可能だし、それを読み取ることもまたしかり、であろう。
もちろん全てが歴史小説である必要はないのだから、歴史的な知識が必要、と言いたいわけではない。ただ、小説を書いたり味わうには、その時代の「日常」に関する知識が必要であり、そこに作家の底の浅さ・深さが現れるのではないだろうか、と思ったりしている。
その域に私は及んでいないと感じるので、そういう意味でも小説にはなかなか手が伸びない、というのが正直なところだ。

なぜ小説が苦手と称する私がこんな小説論をぶっているのか???
積読リストさらしから思わぬ文章が生まれてしまったが、私という人間が少しでも分かったのではないだろうか。
あるいは私のようなものを、「サブカル女子」と揶揄するのだろうか?(女子という年齢でもないが)
わからぬ、わからぬぞ…!

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