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なぜ他人の発言を気にするのか?

例えばもし誰かから酷い悪口を言われたら、私は気に留めないときもあるが、酷く気にすることもある。その場合、何度もそれを思い出し、それを言われるだけのことを自分がしたかどうか、本当に自分がその悪口を言われるほどのものなのかどうか自問自答して、無用に傷口を深くしてしまうだろう。

しかし、他人の発言を気にする必要はないはずである。汚い罵りに対しては実際に拳(こぶし)で殴られたときと同じような反応を脳が示すこともあるそうなのだが、それでも他人の発言を気にする必要はないはずである。それがあらかじめ上下関係の中に置かれていたり、自分にとって死活的に重要な情報を提供するものならともかく、ニュースの切れ端やSNSに投稿されたどこの誰ともわからない他人の言葉を気にする必要はない。なぜならば、それを気にしようと気にしまいと、あなたの周囲の人間関係もあなたが置かれた環境も変わることはないからである。

例えば、地球の裏側で性犯罪や誰かのスキャンダルを告発するといった出来事が起きていたとしても、それを映したかのような写真や動画が流れていたとしても、それにあなたの感情や注意を奪う権利はどこにもない。あなたはそれをみないでいたこともできたし、みなかったことにもできるはずである。なぜならば、あなたは自分の情緒を何に向けるかについて選択できるはずだからである。したがって、他人が口先だけで言ったことについて、あなたは即座に反応したくなるかもしれないが、それは相手の口車、相手がプレイしたいゲームに載っていることである。もちろんあなたがそうしたいなら相手のゲームに載ったっていい。ただ、ここで私が言いたいのは相手のゲームに載らないという選択肢もあるということだけである。あなたは「売り言葉に買い言葉」をやることもできるが、その一方で沈黙を貫くこともできるし、相手の発言や相手自体を正面から問題にしないこともできる。そこから立ち去ることもできる。「手はいろいろある」(老人と海)のである。

言葉で不快な思いをすることは確かにある。なぜならば、言葉はみんなが使うものであり、それを使ってあなたにとって不快なイメージを描くことがいつでも可能だからだ。あるいは、あなたにとって明らかに間違っていたり、ミスとして糾(ただ)したくなるようなことを言うことだって可能だからである。あるいは、発言する側からすれば、「自分は弱い立場だから、たとえ不快だろうとなんだろうと、言葉でわめき散らしてみんなの耳目(じもく)を集めなければ助けてもらう糸口、知ってもらう糸口すらつかめないのだ!」という気持ちがあるからかもしれない。このような事情を持った人々が集まってお互いに悪い言葉を刺激的に並べ立てて我々の注目を引こうとする。もちろん、私もこうやって記事を書き立てることであなたの注意を引き、一定の方向に誘導しようとしている。ただ、この記事で言いたいことはあなたはそのような単なる言葉、口先だけの行為に対して、言うまでもないはずのことだがいろんな反応を示せるということだ。

例えば、無視することもできるし、部分的に批判することもできる。共感することもできるし、反感を述べて終わりにすることもできる。私としてはこの記事は公開された文章である以上、著作権は私に帰属するが、それを誰が論評しようとあるいはしまいとそれは読者の勝手だと心得ているし、また、誰かがコメントしたり論評しても、それに対してもまた私は任意で反応したりしなかったりできると考えている。

他人の発言、他人の言葉に対して過剰な反応や硬直的な反応をしていないかどうか、他人が突きつけてきたゲームに愚直に載らされていないか、振り返ってみることをあなたに提案したい。

(1,532字、2024.05.02)

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